2016年7月27日水曜日

名曲で偲ぶ永六輔さん(2)「上を向いて歩こう」・「生きるものの歌」

 永六輔さんの人生と名曲を紹介する2回目は、作詞家・放送作家として、テレビを中心に活躍した1960年代を中心に次々と名曲を作詞した永さんの活躍と、その後のラジオでの活躍を中心に紹介します。


 1960年代、永六輔さんはNHK「夢であいましょう」(1961年~1966年)をはじめとしてテレビを中心に活躍し、多くの名曲を世に送り出します。

 その中でも、日本はもちろん世界的な大ヒットになったのが、1961(昭和36)年に「夢であいましょう」の今月の歌で紹介された名曲「上を向いて歩こう」です。

 この曲は、作詞が永六輔さん、作曲が中村八大さん、歌ったのが坂本九さんということで、「六・八・九」のトリオの曲とも言われました。

<「上を向いて歩こう」♪>

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
一人ぼっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す夏の日 

一人ぼっちの夜

幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように

泣きながら歩く
一人ぼっちの夜
思い出す秋の日

一人ぼっちの夜🎵


 永六輔さんはのちにラジオで、この歌を作ったきっかけを「60年安保闘争に敗れた人たちの絶望感を詞にした」とおっしゃっています。

 しかし、一方では「失恋の歌」だという説もあります。
 永さん自身がラジオで、女優の中村メイコさんに失恋したときの話だとも語っています。

 また、中村メイコさんの話では、当時、永六輔さんと音楽家の神津善行さんは、同時期に中村メイコさんと付き合っていました。

 ある時、中村メイコさんが、神津との結婚を決めたと永さんに伝えると、永さんはポロポロと涙を流しました。

 どうしたら良いかわからなくなった中村メイコさんが、父親に電話で相談すると、「今日は上を向いて帰りなさい。涙がこぼれないように。そのくらい気の利いたことを言うんだぞ!」と言われ、そのまま永さんに言いました。

 その言葉がきっかけで、「上を向いて歩こう」ができたという説もあります???

 ただし、永六輔さんは、最初、坂本九さんの歌を聞いて、「ウエヲムーイテ」を「ウヘホムフイテ」に聞こるようなユニークな歌い方をしているのに激怒したそうで、「この歌はもう終わりだ」と思ったそうです。

 ところが、この歌い方は、中村八大さんが仕掛けたもので、1961年11月から1962年1月まで3ケ月に渡って、日本のレコード売り上げ1位になりました。

 さらに、ヨーロッパやアメリカでもヒットし、特にアメリカでは、ビルボードのヒットランキングで、1963年6月15日付から6月29日まで、3週連続で全米1位になりました。(2016年7月現在、日本の曲が全米1位になったのは、この曲だけです。)

 ちなみに、アメリカでは「SUKIYAKI(すきやき)」というタイトルで発売され大ヒットしましたが、もう一つのタイトル候補は「SAYONARA(さよなら)」だったそうです。
 内容的には後者の方が合っていたのは、皮肉ですね。

 2011(平成23)年の東日本大震災後、「上を向いて歩こう」は「復興ソング」として、多くの人に上を向いて前向きに歩く「勇気」を与えました。

<レコード「上を向いて歩こう」(Sukiyaki)>




 このあとも、永六輔さんは、今でも歌われている名曲を次々と作りました。その一部を紹介します。

<「黄昏のビギン」♪ (雨に濡れてた たそがれの街 あなたと逢った 初めての夜・・・)
1959(昭和34)年 作曲・中村八大 歌・水原弘>


<「遠くへ行きたい」♪ (知らない街を 歩いてみたい どこか遠くへ行きたい・・・)  
1962(昭和37)年 作曲・中村八大 歌・ジュリー藤尾>
 

<「見上げてごらん夜の星を」♪ (見上げてごらん夜の星を 小さな星の 小さな光が・・・) 
1963(昭和38)年 作曲・いずみたく 歌・坂本九>


<「こんにちは赤ちゃん」♪ (こんにちは赤ちゃん あなたの笑顔・・・)
 1963(昭和38)年 作曲・中村八大 歌・梓みちよ 第5回 日本レコード大賞受賞>


<「女ひとり」♪ (京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり・・・) 
1965(昭和40)年 作曲・いずみたく 歌・デユークエイセス>


<「帰ろかな」♪ (淋しくて 言うんじゃないが 帰ろかな 帰ろかな・・・)
1965(昭和40)年 作曲・中村八大 歌・北島三郎>


<「いい湯だな」♪ (いい湯だな いい湯だな 湯気が天井から ポタリと背中に・・・) 
1966(昭和41)年 作曲・いずみたく 歌・デユークエイセス>


 どの歌も、いつか詳しく紹介したい名曲ですね。

 1970年代に入ると、永六輔さんは全盛を向かえるテレビではなく、ラジオに活躍の舞台を移します。
 特に、TBSラジオの「永六輔の誰かとどこかで」は、1967年から2013年まで46年間放送されました。
 東のラジオの神様・永六輔さんは、生前、西のラジオの神様・浜村淳さんに、
「ラジオは決してテレビの下ではないのです。本当に心に届くのはラジオです。一緒にがんばりましょう!」と話されたそうです。


 著作でも、永六輔さんは1994(平成6)年に「大往生」(岩波新書)で、「老い・病・死について語られた様々な言葉を集めた名言集」を出し、200万部を超えるベストセラーを書いています。

<永六輔著「大往生」>




 そして、2016(平成28)年7月7日、ちょうど七夕の日に、83歳で永六輔さんは亡くなられました。
 
 名曲「上を向いて歩こう」では、「🎵幸せは雲の上に 幸せは空の上に ・・・ 悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに🎵」と歌われています。

 この歌を歌った坂本九さんが1985年飛行機事故で「空」で亡くなり、作詞した永六輔さんは2016年に「七夕の日」に亡くなられたのも、不思議な偶然ですね。

 でも、坂本九さんも、永六輔さんも、「空の上、星の影」の天国へ行かれたと信じたいですね。
 ご冥福をお祈りします。

 最後に、永六輔さんが作詞し、中村八大さんが作曲した「生きるものの歌」(1975年の歌詞を紹介します。


🎵「生きるものの歌」

あなたがこの世に生まれ
あなたがこの世を去る
 
私がこの世に生まれ
私がこの世を去る

その時愛はあるか
その時夢はあるか
そこに幸せな別れがあるだろうか
あるだろうか
 

2016年7月16日土曜日

名曲で偲ぶ永六輔さん(1)「おさななじみ」・「黒い花びら」

 日本の歌で初めて全米1位になった「上を向いて歩こう」をはじめ、「見上げてごらん夜の星を」、「女ひとり」、「おさななじみ」、「いい湯だな」、「黒い花びら」、「黄昏のビギン」、「遠くへ行きたい」、「こんにちは赤ちゃん」などなど、数多くの名曲を作詞した永六輔(えい ろくすけ)さんが、2016(平成28)年7月7日に、肺炎のために83歳で亡くなられました。

 今回は、永さんの名曲を紹介しながら、その人生をふりかえります。

 永六輔(本名 永孝雄)さんは、1933(昭和8)年4月10日、東京府東京市(現在の東京都台東区)浅草で、最尊寺の住職を勤めていた家の子供として生まれました。

  永さんは、江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称していたそうで、父や祖父は「永」という姓を「ヨン」と名乗っていました。


<永六輔さんの実家「最尊寺」(東京都台東区)>



 永さんは東京・浅草の国民学校に通っていましたが、1944(昭和19)年に戦争が激しくなって、 長野県南大井村の国民学校に転学し、そこで終戦を向かえました。
 長野では、東京の言葉を使うので、いじめられたそうです。
 それでも、永さんは例の「江戸っ子なまり」をやめなかったそうです。

 1946(昭和21)年、13歳になる年に長野県立(旧制)上田中学に入学します。
 この頃は太平洋戦争の敗戦直後で、「教師たちは、戦争中に嘘を教えてきた」と怒った生徒たちは、先生たちにリンチを加え、ほとんどの生徒が参加しました。

 たまりかねた学校側は警察に通報し全校集会を開催して、教師へのリンチに加わった者に起立するよう命じました。
 この時、1年生で起立したのは、永さんともう一人だけでした。

 集会のあと、教室に帰った永さんは、「君たちは卑怯だ。みんなあそこにいたじゃないか」と泣き叫びました。永さんの正義感がわかるエピソードですね。
 翌1947年、永さんは東京へ帰り、早稲田中学2年に編入し、その後、早稲田高校に進学・卒業します。

 早稲田中学時代はバイトに精を出し、終戦直後の秋葉原などで拾った鉄屑を売りました。
 この鉄屑を引き取ってくれる業者の中に、後に俳優になる渥美清さんがいました。

 永さんは、この貯めたバイト代で「鉱石ラジオ」の部品を購入し組み立て、NHKラジオの人気番組
「日曜娯楽版」(1947年~1952年)に葉書を投稿し、それがきっかけで番組スタッフになり、やがて放送作家への道が開けていきます。

<永さんの母校 早稲田中学・早稲田高校(東京都新宿区)>


 ここまで、永六輔さんの少年時代を紹介しましたが、永六輔さんの数多い名曲の中でも、少年時代をテーマにした歌といえば「おさななじみ」(永六輔作詞、中村八大作曲)です。
 その1番と3番を紹介します。
 
<🎵1番>
おさななじみの思い出は
青いレモンの味がする
閉じるまぶたのその裏に
幼い姿の君と僕

<🎵3番>
小学校の運動会
君は一等 僕はビリ
泣きたい気持ちでゴールイン
そのまま家まで駆けたっけ


 この「おさななじみ」という歌は、1963(昭和38)年に永六輔が構成作家を務めていたNHKテレビの番組「夢であいましょう」の中で紹介され、デューク・エイセスが歌いました。

 でも、永さん自身の長野での苦い少年時代を考えると、おさななじみの思い出は、本当は「青いレモン」の味ではなく、「青いリンゴ」の味なのかもしれませね。


<小学校の運動会>


 



 永六輔さんは早稲田高校を卒業すると、1952(昭和27)年に早稲田大学第二文学部へ入学します。
 在学中に、三木鶏郎(みきとりろう 1914年~1994年、NHKラジオ『日曜娯楽版』の発案者)さんに投稿した内容のおもしろさからスカウトされ、「トリローグループ」のメンバーとして放送作家、司会者としてデビューします。

 永さんは、早稲田大学第二文学部を1952年に中退しますが、この早稲田大学で学んだことが後に活きてきます。同じ早稲田大学出身の作曲家・中村八大さんとの出会いです。

 永さんは「八大さんあっての私です」と言っていました。
 当時、「ビッグフォー」というジャズバンドの天才ピアニストだった中村八大さんから声をかけられ、永さんは初めて、作詞をするように勧められました。

 それまでほとんど作詞をしていなかった永さんは、自分で考えてもいなかった才能を引き出してくれた大恩人が中村八大さんでした。

 八大さんは、どう書いたらいいかわからない永さんに、「ぜったい書けるから」「とにかくやってみろ」と言って、歌の付録が付いていた雑誌「平凡」を参考にって渡してくれました。

 そこで、1959(昭和34)年、永さん26歳の時に書いたのが『黒い花びら』でした。

 これが、中村八大さん作曲、水原弘さんの歌でレコード化さて、みごと「第1回のレコード大賞」のグランプリを受賞しました。

 永さんは「ぼくはおしゃべりをするように、日常会話で詞を書いてたんですけど、八大さんは、詞のムダな部分を一切削ぎ落とし、見事な歌に仕上げてくれました。」と語っています。
  歴史の先生にでもなろうかと思っていた永さんが、作詞という才能を見い出だした瞬間でした。

 永六輔さんと中村八大さんは、「六・八コンビ」と呼ばれ、この後も「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」など多くの名曲を作り出します。

 それでは、第1回日本レコード大賞を受賞した「黒い花びら」の1番の歌詞を紹介します。


🎵「黒い花びら」 (作詞:永六輔 作曲:中村八大)

黒い花びら 静かに散った
あの人は帰らぬ 遠い夢
俺は知ってる
恋の悲しさ 恋の苦しさ
だから だから
もう恋なんか したくない
したくないのさ

 20代の永六輔さんの詩は、「黒い花びら 静かに散った あの人は帰らぬ 遠い夢」と、まるで83歳の自分の死を追悼するような内容に思えます。


<永六輔さんが逝った2016年7月のレコード盤のような(?)夕焼け>




 次回は、世界的ヒット曲の「上を向いて歩こう」などを中心に、永さんの作詞家人生を紹介したいと思っています。

 1回目の最後に、永六輔さんの名言を、いくつか紹介します。
 
「人間、今が一番若いんだよ」

「生きているということは、誰かに借りをつくること。生きてゆくということは、その借りを返してゆくこと」
「若いうちは貧乏がいいです。貧乏は歳をとってから経験するものではありません」


<マイ一句>

・永さんが 七夕の夜 星になる

 
 

2016年7月10日日曜日

選挙権も鳥の羽も、使わなければダメになる?

2016(平成28)年7月10日は、参議院選挙です。

 憲法改正、安保法案、経済政策(アベノミクス)の是非、などが争点ですが、「今回は日本の将来を決める」ことになるかも知れない大切な参議院選挙だと思っています。

 私は、「どうしても投票しておかないと」という思いで、先日・期日前投票に行きました。

 参議院議員1人を決めるための費用は、4億円とも言われています。選挙権は、貴重な権利ですが、使わなければダメになります。
 後悔しないためにも、税金を無駄にしないためにも、ぜひ、「投票に行きましょう!」



 今回の参議院選挙から、選挙に参加できる年齢が「20歳から18歳」に、引き下げられました。

 世界的に見ると、アメリカ、イギリス、フランスなどのG7の参加国をはじめ、選挙権年齢のデータがある192の国・地域のうち、170の国・地域が選挙権年齢が18歳以上となっています。

低い方では、16歳以上に選挙権が与えられている国も、オーストリア、キューバ、ブラジルなど6カ国あり、インドネシアやスーダンなどは17歳です。

20歳で選挙権が与えられるのは、カメルーン、台湾など7つの国と地域だけになり、21歳がクエート、シンガポールなど12カ国です。
最も選挙権年齢が高いのはアラブ首長国連邦で、25歳です。


今は普通にある「選挙権」ですが、この権利を獲得するのには壮絶な歴史があります。

男子の普通選挙権が世界で初めて与えられのは、多くの犠牲者を出した「フランス革命」時代の1792年のフランスで、被選挙権は25歳以上、投票権は21歳以上とされました。

しかし、普通選挙制度はすぐに廃止され、次にフランスで男子普通選挙が導入されたのは、50年後の1848年の「第二共和政」の時代でした。

アメリカで男子普通選挙が導入されたのは1870(明治3)年で、イギリスは1918(大正7)年、ドイツは1919(大正8)年と、まだ100年にもなっていません。

特に、第1次世界大戦終戦の翌年の1919年に、共和政ドイツで行われた選挙は「世界初の完全普通選挙」でした。
ここで重要なのは、以前紹介したように、この民主的な選挙の中で、ヒットラーが率いるナチスが勢力を伸ばしたことです。

「普通選挙の権利」も、しっかり使わないと、間違った方向に行ってしまうことを忘れてはいけないと思います。

日本で「25歳以上の男子全員」に選挙権が与えられのは、1925(大正年14)年で、「20歳以上の男女全員」に拡大されたのは、太平洋戦争が終わった1945(昭和20)年まで待たなければなりませんでした。

その間には、市川房枝(いちかわふさえ 1893年~1981年 愛知県出身 元参議院議員)さんをはじめとする戦前・戦後の日本の婦人参政権運動(婦人運動)があったことを忘れてはならないと思います。

私たちの1票は、「歴史と未来」が込められた大切な1票なのです。




最後に、「鳥の羽がこの140年で小さくなった」という、驚くべき調査結果を紹介します。

オーストラリア国立大学は、「1860年から2001年にかけての約140年間に採集された、517羽の鳥の標本」を徹底調査した結果、鳥の体の大きさの指標となる羽根の長さが、1.8%~3.6%短くなっていることが確認されたと発表しました。

原因は、「地球温暖化」だと説明しています。

動物には、「ベルツマンの法則」という、赤道に近いところに生息するほど体が小さく、高緯度に生息するほど大型になる傾向があります。

 最も分かりやすい例は、話題の「クマ」だと思います。
 北極のシロクマが最も大きく、カナダのグリスリー(ハイイログマ)がこれに次ぎ、アメリカのクロクマ、日本の北海道のヒグマ、本州のツキノワグマとだんだん小さくなって、赤道付近の東南アジアのマレーグマなどは小さい種類になります。

この理由は、体が大きいと体内に熱を蓄えやすく、小さいと体外に放熱しやすくなるからだ言われていますが、鳥で言えば、「暖かいエサを摂りやすい場所では飛ばなくなり、寒い場所ではエサを求めて遠くまで飛ぶ(たとえば渡り鳥)」から、温暖化で羽が退化しているのではないでしょうか。


恐竜の子孫とも言われる鳥類は、「空を自由に飛ぶ羽をもつこと」で、進化してきました。
でも、ちょっと油断すると、数千万年かけて培ってきた大切な羽も退化してしまいます。

同じことが、「普通選挙権」にも言えるのでは、ないでしょうか。
過去の歴史の中で、人類が培ってきた貴重な選挙権も、しっかり正しく使わないと、ドイツの普通選挙がナチスを台頭させたように、大切な自由や民主主義を失いかねないのです。




みんなで投票に行って、日本の未来をしっかりと選択しましょう!


<一句>

 大空を 飛ぶため大切 羽と一票