2019年5月6日月曜日

「三種の神器」の伝説と令和の新天皇の名言

 「令和(れいわ)」が始まりましたね。
 令和元(2019)年5月1日、新天皇として徳仁(なるひと)親王さま、称号浩宮(ひろのみや)さまが、第126代天皇に即位されました。
 1960年2月23日生まれの59歳で、「徳仁親王」「浩宮」は、いずれも昭和天皇が名付けられました。
 御即位、おめでとうございます。


 今回は、テレビで中継された新天皇の「剣璽等承継の儀」(けんじとう・しょうけいのぎ)を見ていて、多くの皆様が疑問に思われた「三種の神器って何?」「三種なのに、なぜ2つなの?」という疑問について、答えていきたいと思います。

 なるべくわかりやすく紹介しますが、神話や伝説の話なので、難しい言葉や名前が出ることは、ご了承ください。


  三種の神器(さんしゅのじんぎ)は、神様の子孫が地上に降りた「天孫降臨」(てんそんこうりん)の際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が子孫に渡された3つの宝物のことで、これを持つことが天皇即位の証拠であるともいわれています。
(実際には、後鳥羽天皇が1184(元暦元)年に、壇之浦の戦いで平氏が三種の神器を持ち出したままの状態で即位したように、例外もあります。)


 三種の神器を順に紹介すると、一つ目は、「八咫鏡(やたのかがみ)」で、天照大神が「天岩戸(あまのいわと)」に隠れた際に作られ、鏡に映る自分の姿に興味をもって、天照大神が出て来られたと言われています。

 現在、実物は三重県伊勢市の「伊勢神宮」にあると言われていて、「剣璽等承継の儀」では承継されず、「鏡の形代(本物の形に作られたものに魂を込めたもの、レプリカではありません)」は、皇居宮中の賢所にあると言われています。
 この鏡が伊勢神宮にあるので、「剣璽等承継の儀」で皇居で新旧天皇の間で承継されるのは三種ではなく、二種の神器ということになっています。 


<三種の神器の想像模型>




 三種の神器の2つめは、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」で、古事記・日本書紀の時代、出雲の国(今の島根県)で暴れていた8つの頭をもつ大蛇「ヤマタノオロチ」を、須佐之男命(すさのおのみこと)が退治した時に、大蛇の尾の部分からでてきた剣であると伝えられています。

 この剣は、源平合戦の時に、壇之浦に沈んだという説もありますが、本物は愛知県名古屋市の熱田神宮にあり、皇居の剣璽の間には、形代があるとも言われています。

 しかし、他の神器と同じで、実物は箱の中にあって、天皇陛下でさえご覧になれないということなので、すべては謎と伝説に包まれています。


 最後の3つめが、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」で、天照大神が岩戸にお隠れになった際に作られたとの伝承があります。
 この勾玉だけは、オリジナルが皇居にあると言われています。


 「剣璽等承継の儀」の「剣」は「つるぎ」、「璽(じ)」は勾玉をさすので、この儀式には「鏡」は用いられていません。(おそらく伊勢神宮にあるのだと思います。)

 ほかに「国璽(こくじ=国の印)」と「御璽(ぎょじ=天皇の印)」が、引き継がれました。


<「即位後朝見の儀」の令和の徳仁天皇と、皇后・雅子様(2019年5月1日 皇居)>





 後半は、令和の皇后、雅子妃殿下の経歴と、天皇・徳仁さまの名言です。

 まず、雅子皇后の経歴です。

 皇后雅子さまは、旧名・小和田雅子(おわだ・まさこ)さんで、1963(昭和38)年12月9日、東京生まれです。
 
 父の小和田 恆さんは、外交官でのちに外務事務次官になりました。

 小和田雅子さんは、東京生まれですが、ソ連(当時)のモスクワ、アメリカのニューヨーク、ボストン、イギリス・オックスフォードなど海外経験が豊富で、日本語のほか英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語などが話せます。

 1981年(昭和56年)に、アメリカ・ハーバード大学経済学部に入学し、1985年に卒業しました。
 その後、東京大学法学部に編入し、1987年に外交官試験に合格し中退します。

 以後、外務省に入省しますが、1993年6月に徳仁親王と結婚し、2019年5月に皇后となられました。
 まさに絵に描いたような才色兼備の女性ですね。ぜひ外交官のキャリアも活かしていただきたいですね。


 さて、徳仁天皇の2019年5月1日の「即位後朝見の儀」のお言葉です。

「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば,上皇陛下には御即位より,三十年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われいかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い()心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。

 上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研(さん)に励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」(徳仁天皇 宮内庁ホームページより)


 平成に在位された明仁上皇が、在位の30年以上の間、被災地を訪問され、太平洋戦争の激戦地を慰霊されたことに、敬意と感謝を表明されました。
 ぜひ、令和の徳仁天皇も「国民に寄り添って」いただきたいものです。

 最後は、徳仁天皇が皇太子時代の平成17(2005)年の2月21日に、記者会見で「愛子様の教育方針」について質問された時に、引用された言葉です。

アメリカの家庭教育者のドロシー・ロー・ノルト(1924年~2005年)が作った「子ども」という詩です。 


批判ばかりされた 子どもは
非難することを おぼえる

殴られて大きくなった 子どもは
力にたよることを おぼえる

笑いものにされた 子どもは
ものを言わずにいることを おぼえる

皮肉にさらされた 子どもは
鈍い良心の もちぬしとなる

しかし,激励をうけた 子どもは
自信を おぼえる

寛容にであった 子どもは
忍耐を おぼえる

賞賛をうけた 子どもは
評価することを おぼえる

フェアプレーを経験した 子どもは
公正を おぼえる

友情を知る 子どもは
親切を おぼえる

安心を経験した 子どもは
信頼を おぼえる

可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる』








2019年4月30日火曜日

「平成」から「令和」へ ~万葉集と年号・改元エピソード~

「平成最後」のブログは、改元と年号のエピソードと、新年号の出典となった「万葉集」について、紹介します。

 2019(平成31)年4月1日、新しい年号が発表されました。
 管義偉(すが・よしひで)官房長官(1948年~)が発表した、「平成」に続く248番目の元号は、「令和」(れいわ)でした。

 年号は、紀年法(年を数えたり記録する方法)の一つで、「西暦」や「イスラム暦」が無限に続くのに対して、「年号」は有限の期間を現し、古代中国では「皇帝の時空統治権を表す称号」であったと言われています。

 中国で最初に元号が使われたのは紀元前140年で、前漢・武帝の時代です。
 最初の元号は「建元」で、紀元前135年まで6年間使われました。

 一方、日本では、紀元645年7月17日(旧暦では6月14日)に制定された「大化(たいか)」が最初の元号でした。
 時の天皇は第36代の孝徳天皇で、あの「大化の改新」があったことがきっかけだったと言われいます。
 以来、2019年5月1日から始まる「令和」で、日本の248番目の年号となります。


<新元号「令和(れいわ)」を速報する新聞の号外(2019年4月1日)>




 元号は、漢字2文字が多いのですが、「天平勝宝」など奈良時代の5つの元号のみが、4文字になっています。
 また、南北朝時代(1331年~1392年)には2つの元号が使われています。

 これまでの日本の元号で使われた漢字は延べ504文字ですが、同じ文字の繰り返しの使用が多く、実際に使われた文字はわずか72しかありません。
 その中で、1番使われた回数が多いのは「永」で29回もあり、ついで「元」と「天」が27回で続いています。

 明治以降の元号の使用回数を見ると、明治の「明」は7回目、「治」は21回目(使用回数4位)、大正の「大」は6回目、「正」は19回目、昭和の「昭」は1回目、「和」は19回目、平成の「平」は12回、「成」は1回目です。
 令和の「令」は初めてで、「和」は20回目となります。
 
 ですから、令和の「令」で、日本の年号に使われた文字は73文字めとなります。

 かつては、日本以外にも、中国、ベトナム、朝鮮などで元号が使用されていましたが、現在も元号を使用しているのは日本だけです。


 645年に「大化」という年号が定められて以来、2019年の「令和」まで、1374年間で改元は248回ありましたので、単純平均では5年半に1回、改元があったことになります。

 これまでの改元の理由を調べてみてみると、天皇が交代する「代始改元」が今回を入れて72回なのに対して、889年に「仁和地震」が起こった時の改元をはじめ、災害などが起こったことによる「災異改元」が100回を超えてトップになっています。

 変わった改元の理由を、いくつか紹介しましょう。

 大化の次の2番目の「白雉(はくち 650年~654年)」という年号は、今の山口県で白い雉(きじ)が捕らえられて皇室に献上されたことによる吉兆で改元されました。

 奈良時代に入ると、715年に甲羅に北斗七星の模様があるスッポンが天皇に献上されて、霊験あらたかな亀という意味の「霊亀(れいき 715年~717年)」という年号に改元されました。

 続いて717年には、独身の女帝「元正(げんしょう)天皇」が岐阜県の養老の滝の一角にある「菊水霊水」で湧水を飲んだところ、お肌がすべすべになりました。
 これに喜ばれた元正天皇が、年号を「養老(ようろう 717~724年)」に改元しました。

 平安末期の1145年には、ハレー彗星の出現がきっかけで、「久安(きゅうあん 1145年~1151年)」と改元されました。

 江戸末期でも、1860年には、安政の大地震やペリー来航などで、「万延(まんえん 1860~1861年)」に改元されましたが、万延元年に起こった「桜田門外の変」などですぐに、「文久(ぶんきゅう 1861~1864年)」に改元されました。

 これまでの年号で最長は、「昭和(しょうわ 1926~1989年)」で62年と14日で、最短は「暦仁(りゃくにん 1238年~1239年)」の2ヵ月と14日です。
 因みに、「昭和」は世界最長の元号です。


 元号の法的根拠としては、戦前は「皇室典範第12条」に明記されていましたが、戦後は法的根拠がありませんでした。

 政府は、1979(昭和54)年6月6日に「元号法」を制定し、次の内容を決定しました。

「元号法」(昭和五十四年法律第四十三号)

 
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 


<年号にもなった「養老の滝」(岐阜県養老郡養老町)>



 平成(へいせい)の出典は、中国の『史記』の「内平らかに外成る」、あるいは『書経』の「地平らかに天成る」という古典からとられたもので、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味でした。
 一方、2019年5月1日から始まる「令和(れいわ)」の出典は、史上初めて、日本の古典「万葉集」からとられました。

 万葉集は、日本最古の和歌集で、奈良時代(710年~793年)に成立したと言われています。
 天皇・貴族から防人・農民まで、様々な人が作った4500首以上が収められているのが特徴です。

 「令和」は、この万葉集の「巻5 梅花の歌32首併せて序」の中から取られています。

「天平二年(730)年の正月の十三日に、帥老が宅に集まりて、宴会を申ぶ。
 時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く風和ぐ。」

 意味は、
 「天平2年正月13日に、師の老の邸宅に集まって、宴会をした。
 おりしも、初春の美しい月が出て、空気は清く澄み渡り、風はやさしく吹いている。」
 というような内容です。
 1300年近く前の九州・太宰府での梅を見る会が、21世紀の新しい時代の年号になるのは、すごいロマンを感じますね。
 あの菅原道真の「東風吹かば」の歌でさえ、この天平2年の梅の会より、200年以上あとのことになります。

 「令和」という年号には、
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。
梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように。
という思いが、込められているそうです。

 万葉集のこの部分の32首の歌から、大伴旅人(665年~731年)の歌を紹介します。

「我が園(その)に 梅の花散る ひさかたの
                天より雪の 流れ来るかも」


<退位の報告に伊勢神宮を訪問された天皇・皇后両陛下(平成31年4月 三重県伊勢市)>





 おしまいは、平成の在位30年記念式典(2019年2月)での第125代明仁天皇(1933年~)のお言葉です。

「 平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

 世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。
 島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

 
 災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

 平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

「ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ」




 平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

 しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
 在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」



 平成に在位された明仁天皇は、沖縄をはじめ、サイパンやパラオなど、太平洋戦争の激戦地を慰霊に訪問されました。
 一方で、阪神大震災や東日本大震災の被災地など、国内の多くの災害の現場も、何度も何度も訪れ被災者に励ましの声をかけられました。

 平成23年の東日本大震災の計画停電の時には、「皇居も停電して国民とともに不自由な暮らしを」とおっしゃったほど、やさしく、平和を愛する天皇陛下でした。


 私たちは、平成の30年間の平和に感謝し、新たに始まる「令和」という時代に、期待と夢をもって進んで行きたいですね。


<マイ1首> 

「平成が 明るく終わる 春の夜  
           昭和は 遠き 夢のかけらに」(じゅんくう) 

2018年12月9日日曜日

アイドルの坂道(18)夢の紅白総選挙で1位になった「さや姉・山本彩」さんが卒業 ~無限の可能性をもつ紙飛行機~

 2018(平成30)年10月27日、大阪の万博記念公園で、AKB48グループのNMB48の「さや姉」こと、山本彩さんの「卒業コンサート」が開催され、3万人が参加しました。

 今回は、NMB48(大阪・難波)の1期生で、2年前に卒業した渡辺美優紀(みるきー)さんとツートップでNMB48を支え続け、2016年のNHK紅白歌合戦で行われた「夢の紅白選抜」では、指原莉乃さんらを抑えて、見事、1位に輝いた山本彩(やまもとさやか)さんを紹介します。



 山本彩さんは、1993(平成5)年7月14日、大阪府茨木市で生まれました。
 兄弟は、兄2人と姉1人がいて、ニックネームの「さや姉」とは違って、本当は4人兄弟の末っ子です。 
 お母さんは17歳の若さで結婚し、朝日放送テレビの「新婚さんいらっしゃい」に出演したこともあるそうです。


 山本彩さんは、小学校2年生から大阪のダンススクール「リトル・キャット」に姉とともに入り、
2008年、14歳の時には、姉らと組んだバンド「MAD CATZ」で、メジャーデビューしました。

 学校では、小学校5年から中学校3年まで学級委員長を務め、高校2年の時には生徒会長も務めました。天性の人気とリーダーシップがありました。



< 写真 山本彩さんのふるさと「大阪府茨木市」>




 
 
 山本彩さんは、2010(平成22)年9月、AKB48グループの「NMB48」(エヌエムビー・フォーティエイト、NMBは大阪市難波からとった)の1期生のオーデションに合格しました。
 翌10月の「AKB48・東京秋祭り」で、NMB48の1期生の26人とお披露目され、代表して山本さんがあいさつをしました。

 2011(平成23)年1月、NMB48のキャプテンに就任し、同年7月20日にはNMB48の一員として「絶滅黒髪少女」(センターは渡辺美優紀さん)でデビューしました。(オリコン1位)

 山本彩さんは、NMB48のデビュー前の2011年4月に、早くもAKB48本体の21枚目のシングル「Everyday,カチューシャ」の選抜メンバーに選ばれ、6月の「第3回AKB選抜総選挙」では、NMB48から唯一、40位以内の28位に選ばれました。


 その後も、2011年11月発売の2枚目シングル「オーマイガー」でWセンターの1人に選出され、2012年3月発売の3枚目のシングル「純情U-19」では、初めて表題曲の単独センターに選ばれるなど、山本彩さんは順調に、NMB48の中心メンバーに育っていきました。


 2012年11月、NMB48が「大阪マラソンチャリテイ・サポーター」に選ばれた時、こんなエピソードが伝えられています。
 山本彩さんたちNMB48のメンバーは、ゴールで参加者を応援する役割でした。

「どうせアイドルなんて、すぐ帰るだろう。」と関係者は思っていましたが、山本彩さんたちNMBのメンバーは、11月の寒空の中、半袖で一生懸命に参加者の世話をし続けました。
 予定の時間をはるかに過ぎても頑張る山本さんたちを見て、マラソンのスタッフたちは、NMBの山本さんたちのファンになったそうです。


 その後も、山本彩の活躍は続き、2012年6月の「第4回総選挙」で18位、2013年6月の「第5回総選挙」では14位になり、AKB48本体の選抜入りを果たしました。
 
 山本彩さんは、2014(平成26)年2月にAKB48との兼任となり、その年の「第6回総選挙」では6位、2015年の「第7回総選挙」でも6位となり、AKB48本体の中心メンバーの1人になりました。

 この2015年8月に声帯手術を受けました。
 その翌月の9月末からNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のテーマ曲として採用されたのが、名曲「365日の紙飛行機」で、山本彩さんがセンターを務め、ソロでもギターの弾き語りで歌いました。
 「365日の紙飛行機」は、最初は「唇にBe My Baby」のカップリング曲(いわゆるB面)でした。

 しかし、「365日の紙飛行機」は、AKBを知らない年配の人もCDショップに現れ、「365日の紙飛行をくれ」というお客さんに、店員が「AKB48のですか」と聞くと、「AKBじゃないよ。365日の紙飛行機だよ。」と言い張った客が何人もいたそうで、AKB48という枠を超えて、多くのファンを獲得し、ついに両方A面の扱いになり、100万枚を超す大ヒットになり、AKB48の代表曲の一つにまでなりました。

 また、アジアツアーなどでも、「365日の紙飛行機」が観客たちの多くが、日本語で歌詞を合掌するなど、外国でも愛されています。


 「365日の紙飛行機」が大ヒットした翌2016年には、センターの山本彩さんは、6月の「第8回総選挙」で自己最高の4位になり、12月のNHK紅白歌合戦の企画で実施された「夢の紅白選抜」の視聴者投票では、指原莉乃さんや渡辺麻衣さんら総選挙1位の経験者を抑えて、見事トップに山本彩さんがなりました。


<写真 山本彩さんの卒業ライブのポスター>





 それでは、名曲「365日の紙飛行機」♪の歌詞を紹介します。



♪「365日の紙飛行機」(作詞:秋元康、作曲:角野寿和・青葉紘季)♪


朝の空を見上げて 今日という1日が
笑顔でいられるように そっとお願いした

時には雨も降って 涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日 頑張ろう

ずっと見てる夢は
私がもう一人いて
やりたいこと 好きなように
自由に できる夢

人生は紙飛行機
願い乗せて 飛んで行くよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ

その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか
それが一番大切なんだ
ああ 心のままに 
365日




 さや姉の卒業コンサートは、2018年10月27日に「大阪万博記念公園」で行われ、かつての盟友で2年前に卒業した渡辺美優紀(みるきー)さんをはじめ、NMB48の1期生24人が集まり、3万人の観客が集まりました。

 このコンサートで、さや姉が言った言葉を最後に紹介します。

「この8年は、NMB48にすべてを捧げて生きてきました。
 それも責任感だけではなく、自分自身がしたかったんです。
 NMB以上のものはなかったし、私はNMB48が大好きで、大切で、何よりも守りたかったんです。

 卒業する身の私が、これからみんなの、NMBの道しるべになれるように、私自身、もっともっと精進して、自分に厳しく、みなさんを幸せにできるように、頑張っていきます。
 8年間、本当に最高でした。ありがとう、ございました。」


 山本彩さんは、今後、シンガーソングライターとしてソロ活動をするそうです。

 その山本彩さんが、二十歳の誕生日にファンからもらった花に、「レインボーローズ」という花がありました。
 白いバラを、虹色に着色したものですが、この花言葉が「無限の可能性」です。

 この「レインボーローズ」を、山本彩さんが気に入り、2016年発売の山本彩さんのファーストアルバム「Rainbow」の名前にも取り入れ、その名も「レインボーローズ」という本人が作詞・作曲の曲をアルバムに入れています。

 最後に、この曲を紹介します。


♪「レインボーローズ」(作詞・作曲・歌 山本彩)♪


♪(2番から)
近づいて離れて 立ち止まって また歩いて
答え合わせの毎日
弱い自分がただ嫌いだった でも君は
そんな僕を 受け止めてくれた

果てしなく続く 空の向こう 広がる世界は
どんな景色だろう わからないけど
君と二人で 見てみたいんだ

明日 世界が終わっても 後悔しない
そう思える生き方をしたいと思った
いつだって僕は思い出す 昨日の自分にサヨナラ
胸の奥に「無限の可能性」

リセットしたって 地球は同じようにまわるんだ
何度でも 僕は僕を 生きていくよ

明日世界が終わるなら何をしようか
君に笑っていてほしいから 僕は歌おう

明日世界が終わっても後悔しない 
そう思える生き方をしたいと思った
あの日 君がくれた花を 忘れはしない
虹色の花言葉は 「無限の可能性」♪


 シンガーソングライターとしての山本彩さんが、「無限の可能性をもった紙飛行機」として活躍し、
いつか「ソロで紅白に出る」という幼いころの夢を叶えてほしいと、願っています。



2018年9月2日日曜日

ジブリの聖地「金長神社」が風前の灯 ~愛犬の死と名曲「いつでも誰かが」♪~

​​​ 1994(平成6)年7月、高畑勲監督のジブリ映画「平成狸合戦(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ」が公開され、この年、1994年の邦画映画収入トップの26億円を記録しました。

 今回は、このジブリ映画の聖地の一つである「金長神社(きんちょうじんじゃ)」が、存続の危機に陥っている。という話を紹介します。


 まず、「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじの前半を紹介します。
 
 昭和40年代(1965~1974年)、多くのタヌキが平和に暮らしていた多摩丘陵(たまきゅうりょう・主に東京都)に、開発の話が持ち上がります。
 「多摩ニュータウン」の建設です。

 タヌキたちは総会を開き、タヌキ伝統の「化学(ばけがく)」の術の習得と、四国などのタヌキ先進地のタヌキの応援を得て、開発や自然破壊をしようとする人間と戦う決心をしました。

 この決定を受け、多摩丘陵のタヌキの使者「玉三郎」は、四国の小松島の金長神社に、六代目金長狸を訪ね、応援を依頼しました。
 この時、金長狸が住む「金長神社」を忠実に再現したシーンが映画に出てきて、神社内には映画の中の「金長だぬき」にそっくりの人形もあるため、実在する「金長神社」は、ジブリ映画の聖地となりました。


<写真 金長神社にある金長だぬき像 (徳島県小松島市)>



 ところが、この金長神社が奇しくも多摩丘陵と同じように、人間の開発のために消滅の危機に瀕しています。

 金長神社(正式名は「金長大明神」)のある小松島市の「日峰大神子(ひのみねおおみこ)広域公園」が、市の再整備で防災公園になろうとしているのです。

 金長神社の土地は、実は小松島市の土地を「金長奉賛会」という住民団体が借りて運営していたのですが、再開発をすると現在の「都市公園法」の規制を受けることになり、神社を移設することが難しくなるそうなのです。(小松島市の話)

 これに対し、「金長神社」の存続をもとめる住民団体「金長神社を守る会」が、存続を求める署名活動を、手書きとインターネットで行いました。
 あまりPRできていなかったにもかかわらず、2018(平成30)年4月から7月まで行われた署名活動で集まった署名は、1万186筆集まりました。
 署名は、小松島市内や徳島県内はもちろん、全国、そしてインターネットで、アメリカ、中国、韓国、スペインなど世界からも集まりました。県外・外国の署名の多くは「ジブリファン」、特に高畑勲ファンだと言われています。

 この署名は、7月31日に、小松島市の浜田市長と武田市議会議長に届けられました。
 みんなの願いが届けられ、存続が決まるといいですね。


 高畑勲(たかはた・いさお)監督は、1935年三重県生まれで、2018年4月5日に肺がんのため82歳で亡くなられました。
 
 東京大学文学部を卒業し、アニメの演出や監督として活躍しました。 
 主な監督作品としては、「じゃりんこチエ」(1982年)、「火垂るの墓」(1988年)、「おもいでぼろぼろ」(1981年)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994年)、そして「かぐや姫の物語」(2013年)など、多くの作品を手がけました。
 その中でも、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、興行収入トップの24億円を記録した代表作品です。



  実は、「金長神社」が建設には、四国のたぬき伝説「阿波狸合戦」と、「平成狸合戦ぽんぽこ」以外の映画も深く関係しています。
  
 金長神社は、1956(昭和31)年に当時の大映社長の永田雅一さんが、金長だぬきが主演する映画「阿波狸合戦」が空前の大ヒットして、映画会社を立て直してくれたことに感謝して建てたものです。
 商売繁盛や開運にご利益があると言われています。

 永田雅一(ながた・まさいち)さんは、1906年京都市中京区生まれで、「大日本映画製作(大映)」の社長となり、カンヌ国際映画祭でグランプリをとった黒澤明監督の名作「羅生門」などを製作しました。

 また、プロ野球「大映スターズ」のオーナーに就任し、1953年には初代のパシフィックリーグ(パリーグ)の初代総裁にもなっています。

 ほかにも、1951(昭和26)年に10戦10勝で日本ダービーを制した名馬「トキノミノル」のオーナーでもありました。(トキノミノルは、ダービーの17日後に無敗のまま死亡しています。)


<金長だぬきが祭られている「金長神社」(徳島県小松島市)>





 ここからは、金長だぬきが主役の四国に伝わるたぬき伝説で、映画の題材にもなった「阿波狸合戦」について、紹介します。


 時は、江戸時代の後半、天保年間(1830年~1844年)の話です。
 小松島の日開野(ひかいの・現徳島県小松島市日開野町)にあった染物屋「大和屋」の茂右衛門(もえもん)が、人間のいじめられていた1匹の狸を助けました。

 やがて、大和屋に勤める万吉という丁稚にたぬきが憑いて話はじめました。
「私は、茂右衛門さんに助けられた206歳になるタヌキで、金長と言います。命を助けられたお礼に、ここで働かせていただきます。」
 これ以降、大和屋は次第に、繁盛していきました。

 やがて、金長だぬきは茂右衛門からしばらく暇をもらって、阿波(徳島)のたぬきの総大将「津田(徳島市津田町)の六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出ます。
 そこで、抜群の成績を収めた金長だぬきを、津田の六右衛門は自分の娘婿にと誘いますが、金長だぬきは茂右衛門への義理を果たすため、小松島へ帰ります。

 津田の六右衛門は、「金長をこのままにしておいたら、いずれ俺の強敵になる」と考え、子分たちと夜襲をかけます。
 命からがら夜襲を逃れた金長だぬきは、仲間のたぬきを集めて勝浦川(かつうらがわ・徳島市と小松島市の間にある川)の河原で、六右衛門軍と一大決戦を行います。

 金長軍、六右衛門軍、双方あわせて1200匹ともいわれる「たぬき合戦」が、勝浦川で戦い、激戦の末、金長は六右衛門を討ち取りました。
 しかし、金長だぬきも、この時の戦の傷がもとに亡くなってしまいます。

 大和屋の茂右衛門は金長だぬきを偲び、京都まで上って「正一位」の位をもらって、「金長大明神」として、お祀りしました。

 これが四国に伝わる「阿波狸合戦」という伝説です。
 徳島市や小松島市には、この伝説に因み、「たぬき郵便局」をはじめ、「「金長まんじゅう」や「六右衛門まんじゅう」というお菓子、さらには「金長たぬき郵便局」や「世界最大のたぬきの銅像」、さらには、「たぬきが車体に描かれたバス」まで、走っています。

 この伝説をもとに作られたのが、映画「阿波狸合戦」で、戦後、すぐに全国的に大ヒットしました。
 一方、この伝説をもとに、平成になってジブリの高畑勲監督が作ったのが金長だぬきの六代目が活躍するのがジブリ映画の「平成狸合戦ぽんぽこ」なのです。

  平成が終わろうとする今、「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台の一つの「金長神社」が撤去の危機にあるのも、皮肉ですね。


<写真 「平成狸合戦ぽんぽこ」の主要舞台 多摩丘陵と多摩ニュータウン(東京都西部)>




 それでは、「平成狸合戦ぽんぽこ」の後半の部分を紹介します。
 
 化学(ばけがく)を使って多摩丘陵の開発を阻止しようとするタヌキたちですが、開発中止には失敗します。
 この時、タヌキ先進地の四国に応援を依頼していた玉三郎が、六代目金長をはじめ、有名な四国のタヌキたちを連れて多摩丘陵に戻ってきます。

 タヌキたちは、化学(ばけがく)を駆使して「多摩ニュータウン」の建設阻止のために、百鬼夜行など懸命に戦います。
 この時、どさくさに紛れて(?)、ジブリのキャラクターである「となりのトトロのトトロ」や「魔女の宅急便のキキ」、「おぼひでポロポロの岡島タエ子」など、ジブリのスターたちが登場します。
 これも、映画の見どころですね。


 結局、多くのタヌキたちは戦死し、残ったタヌキたちは、人間に化けて人間の世界に入り込んで生きていくことになります。
 少し、淋しい結論ですが、それでも全滅するよりも、いいのかも知れません。



 この映画の主要舞台となった多摩丘陵は、東京都稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまたがる丘陵で、ここに昭和40年代はじめから「多摩ニュータウン」の建設が進められました。

 平成22(2010)年現在、多摩ニュータウンの人口は21万人を数えますが全人口の16%が高齢者になっています。
 タヌキたちに勝利した人間も、高齢化には勝てないようです。
 もちろん、その人口の数%はタヌキなのかも知れませんが、数字はもちろん非公表です。(笑)


  最後に、「平成狸合戦ぽんぽこ」のエンディングテーマ曲を紹介します。


  
♪「いつでも 誰かが」(作詞・作曲 紅龍 歌・上々颱風) ♪


いつでも誰かが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を
心がふさいで 何も見えない夜
きっときっと誰かが いつもそばにいる

生まれた街を 遠く離れても
忘れないでおくれ あの町の風を
いつでも誰かが きっとそばにいる
そうさ きっとおまえが いつもそばにいる

雨の降る朝 いったいどうする
夢からさめたら やっぱり一人かい
いつでもおまえが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を

争いに傷ついて光が見えないなら
耳をすましてくれ きっと聞こえるよ
涙も痛みも いつか消えてゆく
そうさ おまえの微笑みがほしい

風の吹く夜 誰かに会いたい
夢に見たのさ おまえに会いたい

いつでもおまえが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を♪



<写真 おじいちゃんとおばあちゃんに抱かれる故・名犬チワ>




 「平成狸合戦ぽんぽこ」が上映されたのは1994(平成6)年でした。
 それから24年が過ぎ、この映画のスタッフにも、故人になった人が多く出ています。

 まず、ナレーションをしていた三代目古今亭志ん朝さんは、2001年に63歳で亡くなられました。
 また、多摩丘陵の最長老たぬきの声を担当した五代目柳家小さん師匠も、2002年に87歳で他界され、同じ2002年には、多摩丘陵のおばあさんたぬき「おろく婆」の声を担当した清川虹子さんも、89歳で亡くなられています。

 ほかにも鈴ヶ森の長老たぬき「青左衛門」の声を担当した三木のり平さんは1999年に74歳で亡くなられ、六代目金長の声を担当した三代目桂米朝さんも2015年に89歳で亡くなられました。
 そして、今年、2018(平成30)年には、高畑勲監督が82歳で他界されました。

 「しかし、この変わりようは激しすぎる。だまされているのはこちらじゃないか。」
という、「平成狸合戦ぽんぽこ」の中のたぬき「文太」の言葉が、しみじみと胸にしみます。

 蛇足ですが、今日(2018年9月2日)、このブログでも紹介した我が家の「噛まない・吠えない」チワワのチワも他界してしまいました。(チワの話はまた、別に紹介させてください。)


 最後に、高畑勲監督の名言を一つ、紹介します。
「与えられた仕事がつまらない」とか、「教育してくれない」とか「自分の才能を生かしてくれない」などと、会社が自分のほうを向いてくれないことにただ不満をつのらせるだけではどうにもなりません。
 そんなヒマがあったら、その間に自分でおぼえられるものは、みんなおぼえようとすればいい。


 金長神社も、高畑勲監督の仕事も、愛犬チワの思い出も、平成のその先の時代まで
残していきたいと思う「平成最後の夏の終わり」の私です。


一句「平成も 夏も過ぎ去る 涙の9月」






2018年8月18日土曜日

アイドルの坂道(17)乃木坂46の顔・白石麻衣さん~不登校からCM女王に~

 2017(平成29)年11月に「東京ドーム公演」を成功。
続いて同年12月には「日本レコード大賞」受賞と3年連続「NHK紅白歌合戦出場」。
 まさに、日本のアイドル界の頂点に立った「乃木坂46」です。

 その乃木坂46を引っ張る「乃木坂の顔」と呼ばれている白石麻衣(しらいし・まい)さんを、今回は紹介します。


 白石麻衣さんは、1992(平成4)年8月20日、群馬県沼田市の生まれです。
 小さい頃の夢は「ケーキ屋さん」でした。

 中学では、吹奏楽部に入り、続いてソフトボール部に転部しました。
 ソフトボール部では、4番セカンドでホーウランも量産して活躍しました。
 ところが、友達の陰口がきっかけで不登校になり、引きこもりになりました。
 このことがあって、白石さんは今でも、あまり群馬県出身という話をしたがりません。


 中学を卒業すると、白石麻衣さんは、母親とともに埼玉県に引っ越し、さいたま市浦和区にある「小松原女子高校(現・浦和黎明高校)」に進学しました。

 高校卒業後、東京都江戸川区西葛西にある「東京スクールオブミュージック専門学校」に入りました。
 2011年、その専門学校の担任の先生から、「オーディションを受けてみたら」と勧められたオーディションが「乃木坂46」の1期生募集でした。


 白石麻衣さんは人前に出るのが苦手で、アイドルには興味がありませんでした。
 それでも、「引っ込み思案の小さいころからの自分を変えて、不登校や引きこもりの弱い自分をリセットしたい。」という気持ちで、乃木坂46受験を決意しました。

 
 2011(平成23)年8月21日、白石麻衣さんが19歳の誕生日を迎えた翌日、1081倍(応募者38、934人から36人が合格)の倍率を見事突破して、白石麻衣さんは乃木坂46のオーディションに合格しました。



<写真 白石麻衣さんが通っていた東京スクールオブミュージック専門学校(東京都江戸川区)>






 
 翌2012(平成24)年2月22日に、白石麻衣さんをはじめとする乃木坂46は、AKB48の公式ライバルとして、「ぐるぐるカーテン♪」でメジャーデビューしました。


 白石麻衣さんは、このデビュー曲で「福神」と呼ばれる1列目・2列目の「フロント選抜メンバー」に選ばれて以来、2018年8月8日発売の21枚目のシングル「ジコチュウで行こう♪」まで、6年半の間、ずっと「福神」でいる乃木坂46の唯一のメンバーです。


 生駒里奈さんがデビュー以来5曲連続続けてきた乃木坂46のセンターを、2013年7月発売の6枚目シングル「ガールズルール♪」で、白石麻衣さんが引き継ぎ2代目センターとなりました。

 このあと、白石さんは、2015年10月発売の13枚目シングル「今、話したい誰かがいる♪」、2017年3月発売で日本レコード大賞を受賞した17枚目シングル「インフルエンサー」、2018年4月発売の20枚目シングル「シンクロニシティ」と、4回もセンターを務めています。(13枚目と17枚目は西野七瀬さんとのダブルセンター)


 競争の激しいアイドルの世界で、白石麻衣さんは、おっとりとした性格を変えず、「みんなを照らす人」(乃木坂46のメンバー秋元真夏さんの言葉)として、メンバーから尊敬を集めています。


 彼女のキャッチフレーズは、「こんにちは。四次元から来ましたマヨラー星人、〇〇才、白石麻衣です。」
 ですが、デビュー後の白石麻衣さんの活躍は、メンバーの中でも、まさに四次元の活躍を見せています。


 まず、ファッションモデルとしては、「LARME」のレギュラーモデルを、2012年から2018年5月まで務め、「Ray」の専属モデルも2013年から2018年3月まで務めました。


 次に、白石麻衣さんのセカンド写真集「パスポート」(講談社)は、2017年2月の発売以来、2018年6月までで20回の重版を重ね、21世紀最大のヒットとなる30万部を売りあげました。

 男性だけでなく、女性ファンが多いのが彼女の特徴で、美人で色白なのに、あまり自分を主張せず男性にも媚びない性格が、女性にも好感を持たれています。
 その証拠に、乃木坂46の握手会で最も人気のある白石麻衣さんの列には、多くの女性ファンが並んでいます。


 さらに、「好感度のバロメータ」と言われるCMの2018年上半期のランキングでは、2017年トップの広瀬すずさん(13社)や有村架純さん(12社)などの今をときめく人気女優を抑えて、白石麻衣さんが15社で「2018年上半期のCM女王」に輝きました。(ニホンモニター調べ)

 白石さんの主な出演CMは、「キリン・氷結」「カゴメ・ラブレ」などの飲料水・食品から、「ニベア・ボディ」や「資生堂・マキアージュ」などの化粧品、ネットショップの「SHOPLIST」、スマホゲームの「神の手」など、広範囲の分野に渡っています。



<21世紀最大のヒットを記録した白石麻衣さんのセカンド写真集「パスポート」の表紙>






 ここからは、白石麻衣さんの名言を紹介します。


○1
乃木坂に入って初めて、人が好きになりました。


○2
イメージすることは大切です。
「こうなりたい」という気持ちを、いつも持っていて、
それを誰かに話したり、表に出していくことは必要だと思います。


○3
イメージしたら、
次は
チャレンジすることです。
どんなに辛くても、それを乗り越えたら、
楽しいことが待っている。
私は、そう思って努力することにしています。


○4
ポジティブでいることを
心がけています。

ネガティブだと、全然いい表情もできないし、
いいものも出てこない。

何がなんでも、楽しく明るくいることが、
大事だなってことを、これまでのお仕事から学びました。


○5
ファンの方の応援があるから、
頑張れるし、今の私がある。

その部分は
これから年齢を重ねて、
どんな風に変わっていくとしても
私の基本軸です。
このことは、
常に忘れずにいたいです。



 乃木坂46の顔、白石麻衣さんの1本あたりのCM契約金額は6000万円とも言われています。それだけでも、白石麻衣さんの年収は1億円以上と言われています。
 さらに、今世紀最大のヒットを記録した写真集の売り上げや、乃木坂46のメンバーとしての収入を加えると、その額ははかり知れません。

 2018年8月20日で26歳になる白石麻衣さんは、「やさしくてきれいなお姉さん」として、
トップアイドル「乃木坂46」の頂点に立ったと言っても過言ではないと思います。
 当然、「2つの雑誌モデルを、2018年前半にやめたから引退」という噂も出ています。

 でも、自分の生き方、マイウェイを貫いて、これからも乃木坂46の顔を続けていってもらいたいですね。

 少しは黒石さん(悪い白石麻衣さんという意味のキャラクター名)が入ってもいいから、もっともっと先へ、がんばれ白石麻衣さん。

 そんな気持ちを込めて、最後は2018年8月8日に発売された乃木坂46の21枚目のシングル「ジコチュウで行こう」の1番の歌詞を紹介して終わりたいと思います。


 
♪「ジコチュウーで行こう」(作詞:秋元康、作曲:ナスカ、歌:乃木坂46)♪


坂を駆け上がって
肩で息しながら
強い日差しの中
入り江の向こうに広がる海原

ずっと抱えてた 
悔しいことが
何だか ちっぽけに見えてきた
やめよう!もう
この瞬間を無駄にはしない

人生あっという間だ
周りなんか 関係ない
そうだ 何を言われてもいい

やりたいことをやるんだ
ジコチュウだって 
いいじゃないか
マイウェイ
マイウェイ


2018年7月17日火曜日

ミスター笑点・桂歌丸さんを偲ぶ ~一生挑戦の人生に座布団10枚~

「その道が広くなるか狭くなるか。平らな道かデコボコ道か。
それは自分の歩き方次第。
ことによると、途中で土砂崩れにあうかもしれません。
でも、わたしにはこの道しかないんです。」 

 これは、「ミスター笑点」と言われた、落語家の桂歌丸(かつら・うたまる)さんの言葉です。 


 桂歌丸さんは、2018(平成30)年7月2日、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市で81歳で亡くなられました。

 今回は、桂歌丸さんの人生と名言を中心に、紹介したいと思います。



 椎名巌(しいな・いわお、桂歌丸さんの本名)さんは、1936(昭和11)年8月14日、神奈川県横浜市で生まれました。

 実家は、神奈川県横浜市南区真金町の女郎屋でした。
 父は椎名貞雄さん、母は千葉県市原市の農家出身の伊藤ふくさんでした。

 しかし、お父さんの貞雄さんは、歌丸さんが3歳の時に結核で亡くなり、お母さんは姑と仲が悪く家を出ました。
 巌少年(歌丸さん)は、おばあさんの椎名タネさん(1879年~1953年)に育てられました。


 巌少年が生まれ育った当時の横浜市真金町(まがねちょう)は、遊郭のある歓楽街としてにぎわい、「いなり寿司」を売る行商人や、「辻占い」などもあったと、歌丸さんは語っています。

 巌少年(歌丸さん)のおばあさんのタネさんが経営する「富士楼」は、女郎屋として有名で、タネさんが通ると、地元のやくざが道の両側によって道を開けるほどの女傑でした。


 巌少年(歌丸さん)が5歳の時(1941年)に太平洋戦争が始まり、巌少年は母の実家のある千葉県に疎開しました。
 戦争末期、横浜は空襲で焼けました。
 横浜が焼けるようすを、巌少年は東京湾ごしに千葉から見ていました。

 巌少年が9歳の時(1945年)に、日本はアメリカなどの連合国に降伏し、終戦を向かえました。
 横浜の街は空襲で焼け、「富士楼」も焼失しました。
 しかし、タネさんはすぐに「富士楼」をバラックで再建しました。


 歌丸さんは、当時のことをこう語っています。
「物心ついた頃は、戦後の暗い時代で笑いもありませんでした。
 たった一つの笑いが、ラジオで聞いた昭和の名人の落語でした。」

 10歳の歌丸少年は、「みんなに笑いを届けられる噺家になろう」と決意しました。



<写真 桂歌丸さんの本 「座布団一枚 わが落語人生」(小学館)>






 1951(昭和26)年、横浜市立吉田中学を卒業すると、15歳の巌少年(歌丸さん)は、5代目古今亭今輔(1898年~1976年、ここんてい・いますけ)師匠に弟子入りし、古今亭今児を名乗りました。


 今児(歌丸)さんは、1957(昭和33)年に二つ目になった直後、同じ横浜市真金町出身で4つ年上の(有名な)富士子さんと結婚します。

 ところが、そのあと、待遇改善をもとめて「二つ目」仲間でストライキを計画する「香盤(序列)問題」がおき、師匠と協会から離れました。

 ストライキは計画途中で、協会にばれて、逃げ出した仲間たちに代わって、歌丸さんが責任をとるかたちで、落語会を辞めました。

 生まれたばかりの長女をかかえて、桂歌丸家は困窮し、家財を売り払い、化粧品のセールスマンになりました。

 2年半後、三遊亭扇馬さんの応援があり落語界に復帰します。
 1961年、古今亭今輔師匠に事実上の破門をされ、兄弟子だった桂米丸さんに弟子入りし、「桂米坊」に改名しました。
 その後、1964(昭和39)年に、桂米丸さんの命名で「桂歌丸」に改名し、いよいよ歌丸さんの時代が始まります。

 師匠の桂米丸さんは、歌丸さんを「カバン持ち兼お抱え放送作家」として使いました。
 歌丸さんは、米丸師匠のラジオ番組の構成作家の役割も担い、そのことが放送局とのコネクションづくりに役立ちました。


 1965(昭和40)年、29歳になった桂歌丸さんは、日本テレビの大喜利番組「金曜寄席」のオーディションを受けます。
 このオーディションへの応募条件は、落語以外の芸を見せるというものでした。

 困った歌丸さんは、舞台上にそば屋の出前を呼んで、無言でそばを完食しました。
 最後に一言、「おそばつさまでした。」としゃれを駆けて言いました。

 この「芸?」が、審査員だった立川談志さんの笑いのツボに入り、桂歌丸さんは見事、合格しました。

 そうなんです。
 この「金曜寄席」が1年後に、「笑点」という名前の番組に変わり、桂歌丸さんは、そのレギュラーに抜擢されました。


 「笑点」(日本テレビの番組)は、1966(昭和41)年5月15日に始まり、現在も続く国民的番組になりました。

 桂歌丸さんは第1回から出演し、以来、大喜利メンバーとして40年、司会者として10年と合計50年も出演し、2016年5月に引退しました。

 この間、三遊亭小圓游さんとの「ハゲ(歌丸さんのこと)」「お化け」の掛け合いや、6代目三遊亭園楽(楽太郎)との「骸骨」「歌丸さんの死亡ネタ」「薗楽の腹黒」などの掛け合いは名物となりました。


 桂歌丸さんは、2016年5月からは、「笑点終身名誉会長」に就任しています。
 まさに「ミスター笑点」ですね。



<笑点の公開録画の準備をしている「後楽園ホール」の舞台(東京都文京区)>




 私は、何年か前に落語が急に聞きたくなって、「新宿末広亭」にふらっと入りました。
 ところが、入口でもらったパンフレットを見ても、知っている名前がなくて戸惑いました。

 思えば、関西(上方)の落語家は何人か思い浮かぶのですが、関東(東京)の落語家となると頭に浮かぶのは、以前、聞いたことがある立川談志さんのような故人を除けば、ほとんどが笑点に出ているメンバーばかりでした。

 それほど、私のような「落語しろうと」には、笑点のメンバーの影響は大きく、なかでも桂歌丸さんは、その筆頭でした。


 桂歌丸さんは、1968(昭和43)年に真打に昇進し、2004(平成16)年からは落語芸術協会の会長に就任しています。

 
 仕事が順調にいった一方で、桂歌丸さんの後半生は、病気との戦いでした。

 まず2001年に「急性腹膜炎」にかかったのを皮切り(?)に、「腰部脊柱管狭窄症」、「肺気腫」、「肺炎」、「インフルエンザ」、「腸閉塞」、そして死因となった「慢性閉塞性肺疾患」と、本当に病気との戦いの日々でした。
 それでも、酸素吸入をしてまで、桂歌丸さんは、最後まで舞台に上がり続けました。


 それでは、桂歌丸さんの名言をいくつか紹介します。


〇「修業は一生涯に及びます。ですから、辛抱もまた一生涯ということです。」


〇「人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや。」


〇「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え。」


〇「若い時に苦労をしろ。何年か先に振り替えった時、その苦労を笑い話にできるように努力するんだ。」



<写真 桂歌丸さんの追悼垂れ幕が出された「横浜橋商店街」(神奈川県横浜市)>




 例によって、おしまいは「いい話」、いや今回は「いい噺」を紹介します。

 先に紹介したように、桂歌丸さんと6代目三遊亭園楽(楽太郎)さんとの「骸骨」「死亡ネタ」「腹黒」などの掛け合いは、「笑点」を盛り上がる名物となりました。

 でも、これは舞台の上の演出で、実は桂歌丸さんと三遊亭園楽さんは、大の仲良しで、全国各地で二人
会を開催し、メキシコ公演にも行っていました。


 桂歌丸さんは、圓楽さんだけでなく、他の後輩の出演者にも、
「舞台の上では先輩も後輩もない。萎縮せず、遠慮するな。」
と言って、若手の出演者を激励しました。

 三遊亭小遊三さんは、「気力・根性・実力・才能、すべて兼ね備えている」と言い、
 三遊亭好楽さんは「笑点あっての歌丸じゃなく、歌丸あっての笑点。あの師匠がいなかったら番組が成り立たない」と語っています。
 

 三遊亭園楽さんは、桂歌丸さんが入院するたびに、落語のテープ(CD)を見舞いにもっていきました。
 すると、歌丸さんは退院の時には、その噺を覚えてきた「デパートリーが増えた」と喜んでいたそうです。


 桂歌丸さんは、こう言っています。
「いろんな人に言われます。70を過ぎてまで、どうして苦労して新しい噺を覚えるのかって。
そりゃあ覚えも悪くなっていくし、挑戦し続けるのはしんどい。
 でも、最期に目をつむった時に楽な気持ちでありたいんです。『ああ、あの噺もできたのに』なんて後悔しても遅いでしょ。」

 一生勉強、一生挑戦だった桂歌丸さんの名言ですね。
 歌丸さんに、最後に言いたいです。
「山田くーん、歌丸さんの人生に、座布団10枚!」 



2018年7月10日火曜日

平成最後の夏に最悪豪雨~やがて淋しき「初恋の味」~

 平成最後の夏、2018(平成30)年の夏は大荒れで始まりました。 6月18日に大阪北部を震源とする震度6弱(マグニチュード6.1)の地震が発生し、死者4人、400人以上が負傷しました。
 続いて、7月5日頃からは全国各地で記録的な大雨が降り、7月9日19時10分現在で108人が死亡、行方不明者29人(消防庁調べ)など、西日本を中心に大きな被害が発生しています。


 今回は、気象庁が今回の豪雨で計11府県で発表した「大雨特別警報」を切り口に、2018年7月豪雨について考えてみたいと思います。

 
 7月上旬の豪雨の原因は、7月初めに対馬海峡を通過した「台風7号」が、日本の南海上に残していった非常に大きな積乱雲から、西日本から東日本に停滞していた梅雨前線に向かって非常に湿った空気が大量に入り続けたことでした。


<7月6日9時の天気図 (気象庁)>




 今度の大雨の大きな特徴は、時間的にはずれがありますが、「大雨特別警報」が過去最多の11府県 
(岐阜県、京都府、兵庫県、鳥取県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県)に発表された点です。

 「大雨特別警報」は、台風や集中豪雨による数十年に一度の降水量が予想される場合、または、数十年に一度の強度を持つ台風や、それと同程度の温帯低気圧による大雨が予想される場合に発表されるものですが、これまでは最大3府県だったので、今回の11府県はそれを大きく上回り、岐阜県から近畿・中国四国、九州北部まで広域に出されました。

 しかし、「大雨特別警報」の発表と、実際の雨量や被害とは、必ずしも一致していません。
 たとえば、累積雨量が1000ミリを超えた県は、岐阜県、徳島県、高知県でしたが、このうち特別警報が出されたのは2県で、それも大雨の終盤の7月8日になってからでした。
 一方、死者(被害)の多かった県は、広島県(40人)、岡山県(28人)、愛媛県(23人)、京都府(4人)、山口県(3人)、福岡県(3人)などでした。
 
 特に、3番目に被害が多かった愛媛県に特別警報が出たのは大雨の最終日の7月8日になってからで、多くの被害が出たのは特別警報が出る前でした。

 実は、「太平洋側には、特別警報が出にくい」との説があります。

 確かに、今回、大雨特別警報が出された11府県の面している海を考えてみると、ピークを過ぎた7月8日になって特別警報が出た愛媛県と高知県を除くと、ほぼ瀬戸内海・日本海・東シナ海に面している府県と内陸県の岐阜県です。
 ちなみに、唯一、太平洋に面している兵庫県の淡路島は、今回の大雨特別警報の発表地域ではありませんでした。


<写真 夜も続く捜索活動(岡山県倉敷市 平成30年7月)>





 
 
 もう一つ、被災地のインタビューで、「特別警報」の意味を理解している人は少ないのではないかとも、思いました。

 たとえば、「特別警報が出てから避難した」という避難者や、「特別警報が出ているから、線路の被害調査や復旧工事はできない」という鉄道関係者がいました。

 特別警報は、避難を促す「避難指示」や「避難勧告」とは違いますし、まして「災害復旧」や「被害調査」を禁じるものではありません。


 大雨による被害の2大要因は。がけ崩れ・山崩れなどの「土砂災害」と、川やため池の決壊などの「洪水・浸水」による災害ですが、前者のスーパー警報が「土砂災害警戒情報」、後者は「洪水警報」や「(河川ごとの)氾濫危険情報・氾濫発生情報」が警報にあたるものです。

 しかし、特別警報と「土砂災害警戒情報」「洪水警報」「氾濫発生情報」、さらに避難を促す「避難指示」や「避難勧告」との役割分担は、一般の人にはわかりにくいと思います。

 ちなみに、今回の豪雨で、避難指示や避難勧告の対象になった人は、先の消防庁の調査で約381万人もいますが、実際に避難したのは30、250人で、わずか0.8%に過ぎませんでした。
 
 国民の安全・安心のために、気象庁や国土交通省、都道府県などが次々と制度改革をしてきた「気象警報や防災情報」ですが、今回の豪雨をきっかけに、「一人一人が単純でわかりやすく命を守る行動」ができるように、地震や津波の情報も含め、運用方法や伝達方法を、改革していただきたいと願います。

 このブログでも、今後も防災情報を、とりあげていこうと思っています。


 それにしても、今回の豪雨は、台風でもないのに、わかっているだけで124人が死亡し6人が心肺停止6人、63人が行方不明(7月10日2時現在、NHK調べ)という平成になって最悪の風水害被害が出ました。

 平成最後の夏・2018年は、今回の豪雨をはじめ、大阪北部地震などの地震、霧島連山やキラウエアなどの火山噴火もあり、災害への「備え」や厳重な警戒がますます必要となっています。


<特別警報の基準 (気象関係 ほかに地震・津波・火山噴火などもあります)>





 後半は、今年は雨で見えなかった「七夕の話」、いや、「7月7日」が誕生日の「初恋の味・カルピス」の話です。


 今から99年前の1919(大正8)年7月7日、あの「カルピス」が発売されました。

 カルピスは、創業者の三島海雲(みしま・かいうん、1878(明治11)年~1974(昭和49)年 大阪府箕面市生まれ)さんが、内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を旅行中に体調を崩した時、現地で勧められた乳酸菌を飲むと体調が回復したことに始まります。

 この出来事から、三島さん帰国後に研究をすすめ、1919年7月7日に発売したのが「カルピス」で、脱脂乳を乳酸菌で発酵・加糖して、酵母を加えたものです。

 7月7日が誕生日なのにちなみ、カルピスの水玉模様は、「天の川」を現しています。

 「カルピス」という名前は、「カルシウム」とサンスクリット語の「サルピス」(じゅくその意味)から作った造語で、「あかとんぼ」などの作曲で知られるあの山田耕作さんなどが名付け親です。

 「初恋の味カルピス」という有名なキャッチフレーズは、発売直後の1920年頃から使われていますが、三島さんの学生時代の後輩が作ったものです。
 
 三島さんは後輩に、「カルピスは子供も飲む。子供に初恋の味がわかるだろうか。」と聞くと、後輩は笑顔で「子供には、初恋はカルピスの味だと答えればいい。初恋は純粋で美しいものだ。」と答えました。
 
 1923年に起こった「関東大震災」で、カルピスを無料で配布したこともあり、国民の夏の飲み物として、不動の人気を得ました。


 ちなみに、手話の「初恋」は、カルピスなどの飲み物を入れた1つのグラスに、2本のストローを指していることをイメージし、写真のような指の形であらわします。


<「初恋」の意味の手話と、カルピスのイメージ >







 今年は豪雨で会えなかった七夕の織姫や彦星の二人と、「平成30年7月豪雨」の犠牲者への追悼、ほかの被災者のみなさんの無事を祈りながら、今夜は、少しほろ苦い「初恋の味カルピス」を飲みたいと思っています。


「平成の 最後の夏に 最悪豪雨 やがて淋しき 初恋の味」(じゅんくう)