2019年4月30日火曜日

「平成」から「令和」へ ~万葉集と年号・改元エピソード~

「平成最後」のブログは、改元と年号のエピソードと、新年号の出典となった「万葉集」について、紹介します。

 2019(平成31)年4月1日、新しい年号が発表されました。
 管義偉(すが・よしひで)官房長官(1948年~)が発表した、「平成」に続く248番目の元号は、「令和」(れいわ)でした。

 年号は、紀年法(年を数えたり記録する方法)の一つで、「西暦」や「イスラム暦」が無限に続くのに対して、「年号」は有限の期間を現し、古代中国では「皇帝の時空統治権を表す称号」であったと言われています。

 中国で最初に元号が使われたのは紀元前140年で、前漢・武帝の時代です。
 最初の元号は「建元」で、紀元前135年まで6年間使われました。

 一方、日本では、紀元645年7月17日(旧暦では6月14日)に制定された「大化(たいか)」が最初の元号でした。
 時の天皇は第36代の孝徳天皇で、あの「大化の改新」があったことがきっかけだったと言われいます。
 以来、2019年5月1日から始まる「令和」で、日本の248番目の年号となります。


<新元号「令和(れいわ)」を速報する新聞の号外(2019年4月1日)>




 元号は、漢字2文字が多いのですが、「天平勝宝」など奈良時代の5つの元号のみが、4文字になっています。
 また、南北朝時代(1331年~1392年)には2つの元号が使われています。

 これまでの日本の元号で使われた漢字は延べ504文字ですが、同じ文字の繰り返しの使用が多く、実際に使われた文字はわずか72しかありません。
 その中で、1番使われた回数が多いのは「永」で29回もあり、ついで「元」と「天」が27回で続いています。

 明治以降の元号の使用回数を見ると、明治の「明」は7回目、「治」は21回目(使用回数4位)、大正の「大」は6回目、「正」は19回目、昭和の「昭」は1回目、「和」は19回目、平成の「平」は12回、「成」は1回目です。
 令和の「令」は初めてで、「和」は20回目となります。
 
 ですから、令和の「令」で、日本の年号に使われた文字は73文字めとなります。

 かつては、日本以外にも、中国、ベトナム、朝鮮などで元号が使用されていましたが、現在も元号を使用しているのは日本だけです。


 645年に「大化」という年号が定められて以来、2019年の「令和」まで、1374年間で改元は248回ありましたので、単純平均では5年半に1回、改元があったことになります。

 これまでの改元の理由を調べてみてみると、天皇が交代する「代始改元」が今回を入れて72回なのに対して、889年に「仁和地震」が起こった時の改元をはじめ、災害などが起こったことによる「災異改元」が100回を超えてトップになっています。

 変わった改元の理由を、いくつか紹介しましょう。

 大化の次の2番目の「白雉(はくち 650年~654年)」という年号は、今の山口県で白い雉(きじ)が捕らえられて皇室に献上されたことによる吉兆で改元されました。

 奈良時代に入ると、715年に甲羅に北斗七星の模様があるスッポンが天皇に献上されて、霊験あらたかな亀という意味の「霊亀(れいき 715年~717年)」という年号に改元されました。

 続いて717年には、独身の女帝「元正(げんしょう)天皇」が岐阜県の養老の滝の一角にある「菊水霊水」で湧水を飲んだところ、お肌がすべすべになりました。
 これに喜ばれた元正天皇が、年号を「養老(ようろう 717~724年)」に改元しました。

 平安末期の1145年には、ハレー彗星の出現がきっかけで、「久安(きゅうあん 1145年~1151年)」と改元されました。

 江戸末期でも、1860年には、安政の大地震やペリー来航などで、「万延(まんえん 1860~1861年)」に改元されましたが、万延元年に起こった「桜田門外の変」などですぐに、「文久(ぶんきゅう 1861~1864年)」に改元されました。

 これまでの年号で最長は、「昭和(しょうわ 1926~1989年)」で62年と14日で、最短は「暦仁(りゃくにん 1238年~1239年)」の2ヵ月と14日です。
 因みに、「昭和」は世界最長の元号です。


 元号の法的根拠としては、戦前は「皇室典範第12条」に明記されていましたが、戦後は法的根拠がありませんでした。

 政府は、1979(昭和54)年6月6日に「元号法」を制定し、次の内容を決定しました。

「元号法」(昭和五十四年法律第四十三号)

 
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 


<年号にもなった「養老の滝」(岐阜県養老郡養老町)>



 平成(へいせい)の出典は、中国の『史記』の「内平らかに外成る」、あるいは『書経』の「地平らかに天成る」という古典からとられたもので、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味でした。
 一方、2019年5月1日から始まる「令和(れいわ)」の出典は、史上初めて、日本の古典「万葉集」からとられました。

 万葉集は、日本最古の和歌集で、奈良時代(710年~793年)に成立したと言われています。
 天皇・貴族から防人・農民まで、様々な人が作った4500首以上が収められているのが特徴です。

 「令和」は、この万葉集の「巻5 梅花の歌32首併せて序」の中から取られています。

「天平二年(730)年の正月の十三日に、帥老が宅に集まりて、宴会を申ぶ。
 時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く風和ぐ。」

 意味は、
 「天平2年正月13日に、師の老の邸宅に集まって、宴会をした。
 おりしも、初春の美しい月が出て、空気は清く澄み渡り、風はやさしく吹いている。」
 というような内容です。
 1300年近く前の九州・太宰府での梅を見る会が、21世紀の新しい時代の年号になるのは、すごいロマンを感じますね。
 あの菅原道真の「東風吹かば」の歌でさえ、この天平2年の梅の会より、200年以上あとのことになります。

 「令和」という年号には、
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。
梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように。
という思いが、込められているそうです。

 万葉集のこの部分の32首の歌から、大伴旅人(665年~731年)の歌を紹介します。

「我が園(その)に 梅の花散る ひさかたの
                天より雪の 流れ来るかも」


<退位の報告に伊勢神宮を訪問された天皇・皇后両陛下(平成31年4月 三重県伊勢市)>





 おしまいは、平成の在位30年記念式典(2019年2月)での第125代明仁天皇(1933年~)のお言葉です。

「 平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

 世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。
 島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

 
 災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

 平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

「ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ」




 平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

 しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
 在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」



 平成に在位された明仁天皇は、沖縄をはじめ、サイパンやパラオなど、太平洋戦争の激戦地を慰霊に訪問されました。
 一方で、阪神大震災や東日本大震災の被災地など、国内の多くの災害の現場も、何度も何度も訪れ被災者に励ましの声をかけられました。

 平成23年の東日本大震災の計画停電の時には、「皇居も停電して国民とともに不自由な暮らしを」とおっしゃったほど、やさしく、平和を愛する天皇陛下でした。


 私たちは、平成の30年間の平和に感謝し、新たに始まる「令和」という時代に、期待と夢をもって進んで行きたいですね。


<マイ1首> 

「平成が 明るく終わる 春の夜  
           昭和は 遠き 夢のかけらに」(じゅんくう)