2018年9月2日日曜日

ジブリの聖地「金長神社」が風前の灯 ~愛犬の死と名曲「いつでも誰かが」♪~

​​​ 1994(平成6)年7月、高畑勲監督のジブリ映画「平成狸合戦(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ」が公開され、この年、1994年の邦画映画収入トップの26億円を記録しました。

 今回は、このジブリ映画の聖地の一つである「金長神社(きんちょうじんじゃ)」が、存続の危機に陥っている。という話を紹介します。


 まず、「平成狸合戦ぽんぽこ」のあらすじの前半を紹介します。
 
 昭和40年代(1965~1974年)、多くのタヌキが平和に暮らしていた多摩丘陵(たまきゅうりょう・主に東京都)に、開発の話が持ち上がります。
 「多摩ニュータウン」の建設です。

 タヌキたちは総会を開き、タヌキ伝統の「化学(ばけがく)」の術の習得と、四国などのタヌキ先進地のタヌキの応援を得て、開発や自然破壊をしようとする人間と戦う決心をしました。

 この決定を受け、多摩丘陵のタヌキの使者「玉三郎」は、四国の小松島の金長神社に、六代目金長狸を訪ね、応援を依頼しました。
 この時、金長狸が住む「金長神社」を忠実に再現したシーンが映画に出てきて、神社内には映画の中の「金長だぬき」にそっくりの人形もあるため、実在する「金長神社」は、ジブリ映画の聖地となりました。


<写真 金長神社にある金長だぬき像 (徳島県小松島市)>



 ところが、この金長神社が奇しくも多摩丘陵と同じように、人間の開発のために消滅の危機に瀕しています。

 金長神社(正式名は「金長大明神」)のある小松島市の「日峰大神子(ひのみねおおみこ)広域公園」が、市の再整備で防災公園になろうとしているのです。

 金長神社の土地は、実は小松島市の土地を「金長奉賛会」という住民団体が借りて運営していたのですが、再開発をすると現在の「都市公園法」の規制を受けることになり、神社を移設することが難しくなるそうなのです。(小松島市の話)

 これに対し、「金長神社」の存続をもとめる住民団体「金長神社を守る会」が、存続を求める署名活動を、手書きとインターネットで行いました。
 あまりPRできていなかったにもかかわらず、2018(平成30)年4月から7月まで行われた署名活動で集まった署名は、1万186筆集まりました。
 署名は、小松島市内や徳島県内はもちろん、全国、そしてインターネットで、アメリカ、中国、韓国、スペインなど世界からも集まりました。県外・外国の署名の多くは「ジブリファン」、特に高畑勲ファンだと言われています。

 この署名は、7月31日に、小松島市の浜田市長と武田市議会議長に届けられました。
 みんなの願いが届けられ、存続が決まるといいですね。


 高畑勲(たかはた・いさお)監督は、1935年三重県生まれで、2018年4月5日に肺がんのため82歳で亡くなられました。
 
 東京大学文学部を卒業し、アニメの演出や監督として活躍しました。 
 主な監督作品としては、「じゃりんこチエ」(1982年)、「火垂るの墓」(1988年)、「おもいでぼろぼろ」(1981年)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994年)、そして「かぐや姫の物語」(2013年)など、多くの作品を手がけました。
 その中でも、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、興行収入トップの24億円を記録した代表作品です。



  実は、「金長神社」が建設には、四国のたぬき伝説「阿波狸合戦」と、「平成狸合戦ぽんぽこ」以外の映画も深く関係しています。
  
 金長神社は、1956(昭和31)年に当時の大映社長の永田雅一さんが、金長だぬきが主演する映画「阿波狸合戦」が空前の大ヒットして、映画会社を立て直してくれたことに感謝して建てたものです。
 商売繁盛や開運にご利益があると言われています。

 永田雅一(ながた・まさいち)さんは、1906年京都市中京区生まれで、「大日本映画製作(大映)」の社長となり、カンヌ国際映画祭でグランプリをとった黒澤明監督の名作「羅生門」などを製作しました。

 また、プロ野球「大映スターズ」のオーナーに就任し、1953年には初代のパシフィックリーグ(パリーグ)の初代総裁にもなっています。

 ほかにも、1951(昭和26)年に10戦10勝で日本ダービーを制した名馬「トキノミノル」のオーナーでもありました。(トキノミノルは、ダービーの17日後に無敗のまま死亡しています。)


<金長だぬきが祭られている「金長神社」(徳島県小松島市)>





 ここからは、金長だぬきが主役の四国に伝わるたぬき伝説で、映画の題材にもなった「阿波狸合戦」について、紹介します。


 時は、江戸時代の後半、天保年間(1830年~1844年)の話です。
 小松島の日開野(ひかいの・現徳島県小松島市日開野町)にあった染物屋「大和屋」の茂右衛門(もえもん)が、人間のいじめられていた1匹の狸を助けました。

 やがて、大和屋に勤める万吉という丁稚にたぬきが憑いて話はじめました。
「私は、茂右衛門さんに助けられた206歳になるタヌキで、金長と言います。命を助けられたお礼に、ここで働かせていただきます。」
 これ以降、大和屋は次第に、繁盛していきました。

 やがて、金長だぬきは茂右衛門からしばらく暇をもらって、阿波(徳島)のたぬきの総大将「津田(徳島市津田町)の六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出ます。
 そこで、抜群の成績を収めた金長だぬきを、津田の六右衛門は自分の娘婿にと誘いますが、金長だぬきは茂右衛門への義理を果たすため、小松島へ帰ります。

 津田の六右衛門は、「金長をこのままにしておいたら、いずれ俺の強敵になる」と考え、子分たちと夜襲をかけます。
 命からがら夜襲を逃れた金長だぬきは、仲間のたぬきを集めて勝浦川(かつうらがわ・徳島市と小松島市の間にある川)の河原で、六右衛門軍と一大決戦を行います。

 金長軍、六右衛門軍、双方あわせて1200匹ともいわれる「たぬき合戦」が、勝浦川で戦い、激戦の末、金長は六右衛門を討ち取りました。
 しかし、金長だぬきも、この時の戦の傷がもとに亡くなってしまいます。

 大和屋の茂右衛門は金長だぬきを偲び、京都まで上って「正一位」の位をもらって、「金長大明神」として、お祀りしました。

 これが四国に伝わる「阿波狸合戦」という伝説です。
 徳島市や小松島市には、この伝説に因み、「たぬき郵便局」をはじめ、「「金長まんじゅう」や「六右衛門まんじゅう」というお菓子、さらには「金長たぬき郵便局」や「世界最大のたぬきの銅像」、さらには、「たぬきが車体に描かれたバス」まで、走っています。

 この伝説をもとに作られたのが、映画「阿波狸合戦」で、戦後、すぐに全国的に大ヒットしました。
 一方、この伝説をもとに、平成になってジブリの高畑勲監督が作ったのが金長だぬきの六代目が活躍するのがジブリ映画の「平成狸合戦ぽんぽこ」なのです。

  平成が終わろうとする今、「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台の一つの「金長神社」が撤去の危機にあるのも、皮肉ですね。


<写真 「平成狸合戦ぽんぽこ」の主要舞台 多摩丘陵と多摩ニュータウン(東京都西部)>




 それでは、「平成狸合戦ぽんぽこ」の後半の部分を紹介します。
 
 化学(ばけがく)を使って多摩丘陵の開発を阻止しようとするタヌキたちですが、開発中止には失敗します。
 この時、タヌキ先進地の四国に応援を依頼していた玉三郎が、六代目金長をはじめ、有名な四国のタヌキたちを連れて多摩丘陵に戻ってきます。

 タヌキたちは、化学(ばけがく)を駆使して「多摩ニュータウン」の建設阻止のために、百鬼夜行など懸命に戦います。
 この時、どさくさに紛れて(?)、ジブリのキャラクターである「となりのトトロのトトロ」や「魔女の宅急便のキキ」、「おぼひでポロポロの岡島タエ子」など、ジブリのスターたちが登場します。
 これも、映画の見どころですね。


 結局、多くのタヌキたちは戦死し、残ったタヌキたちは、人間に化けて人間の世界に入り込んで生きていくことになります。
 少し、淋しい結論ですが、それでも全滅するよりも、いいのかも知れません。



 この映画の主要舞台となった多摩丘陵は、東京都稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまたがる丘陵で、ここに昭和40年代はじめから「多摩ニュータウン」の建設が進められました。

 平成22(2010)年現在、多摩ニュータウンの人口は21万人を数えますが全人口の16%が高齢者になっています。
 タヌキたちに勝利した人間も、高齢化には勝てないようです。
 もちろん、その人口の数%はタヌキなのかも知れませんが、数字はもちろん非公表です。(笑)


  最後に、「平成狸合戦ぽんぽこ」のエンディングテーマ曲を紹介します。


  
♪「いつでも 誰かが」(作詞・作曲 紅龍 歌・上々颱風) ♪


いつでも誰かが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を
心がふさいで 何も見えない夜
きっときっと誰かが いつもそばにいる

生まれた街を 遠く離れても
忘れないでおくれ あの町の風を
いつでも誰かが きっとそばにいる
そうさ きっとおまえが いつもそばにいる

雨の降る朝 いったいどうする
夢からさめたら やっぱり一人かい
いつでもおまえが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を

争いに傷ついて光が見えないなら
耳をすましてくれ きっと聞こえるよ
涙も痛みも いつか消えてゆく
そうさ おまえの微笑みがほしい

風の吹く夜 誰かに会いたい
夢に見たのさ おまえに会いたい

いつでもおまえが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を♪



<写真 おじいちゃんとおばあちゃんに抱かれる故・名犬チワ>




 「平成狸合戦ぽんぽこ」が上映されたのは1994(平成6)年でした。
 それから24年が過ぎ、この映画のスタッフにも、故人になった人が多く出ています。

 まず、ナレーションをしていた三代目古今亭志ん朝さんは、2001年に63歳で亡くなられました。
 また、多摩丘陵の最長老たぬきの声を担当した五代目柳家小さん師匠も、2002年に87歳で他界され、同じ2002年には、多摩丘陵のおばあさんたぬき「おろく婆」の声を担当した清川虹子さんも、89歳で亡くなられています。

 ほかにも鈴ヶ森の長老たぬき「青左衛門」の声を担当した三木のり平さんは1999年に74歳で亡くなられ、六代目金長の声を担当した三代目桂米朝さんも2015年に89歳で亡くなられました。
 そして、今年、2018(平成30)年には、高畑勲監督が82歳で他界されました。

 「しかし、この変わりようは激しすぎる。だまされているのはこちらじゃないか。」
という、「平成狸合戦ぽんぽこ」の中のたぬき「文太」の言葉が、しみじみと胸にしみます。

 蛇足ですが、今日(2018年9月2日)、このブログでも紹介した我が家の「噛まない・吠えない」チワワのチワも他界してしまいました。(チワの話はまた、別に紹介させてください。)


 最後に、高畑勲監督の名言を一つ、紹介します。
「与えられた仕事がつまらない」とか、「教育してくれない」とか「自分の才能を生かしてくれない」などと、会社が自分のほうを向いてくれないことにただ不満をつのらせるだけではどうにもなりません。
 そんなヒマがあったら、その間に自分でおぼえられるものは、みんなおぼえようとすればいい。


 金長神社も、高畑勲監督の仕事も、愛犬チワの思い出も、平成のその先の時代まで
残していきたいと思う「平成最後の夏の終わり」の私です。


一句「平成も 夏も過ぎ去る 涙の9月」