2018年5月26日土曜日

追悼・西城秀樹 最後までリハビリと歌手を続けた永遠のヤングマン

「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」
(「ありのままに3度めの人生を生きる」西城秀樹著(廣済堂出版))

 
 これは、昭和のトップアイドル・西城秀樹さんが、二度目の脳梗塞(のうこうそく)を発症した2011年の翌年に出版した本に書かれた言葉です。


 2018(平成30)年5月16日に、昭和のトップアイドルの一人で、郷ひろみさん、野口五郎さんとともに、「新御三家(しんごさんけ)」と言われた西城秀樹(さいじょう・ひでき)さんが、心不全のため63歳で亡くなられました。

 今回は、1970年代から1980年代にかけて、トップアイドル・スターとして活躍した西城秀樹さんを偲びます。


 西城秀樹さんは、本名を「木本龍雄(きもとたつお)」さんといい、広島県広島市で1955(昭和30)年4月13日に生まれました。

 実家は広島駅の近くにあり、かなり裕福であったと言われています。(パチンコ屋を経営していたという噂もあります。)

 西城秀樹さんには、お兄さんとお姉さんがいて、小学校の時からドラムを叩き、お兄さんたちとエレキバンドを結成していまいた。
 さらに、中学校時代には、アメリカ軍の岩国基地のライブハウスへも出演していました。

 西城さんは中学を卒業すると、「山陽高等学校」(広島県広島市西区)に進学しました。
 そして、高校に入って、西城秀樹さんがジャズ喫茶でバンド演奏していた時に、東京の芸能事務所にスカウトされました。

 秀樹さんは、父親など家族の反対を押し切って、家出同然で上京し、いしだあゆみさんなどが所属していた芸能事務所「芸映」(東京都港区赤坂=当時)に入りました。


<写真 西城秀樹さんの死去を報じる中国新聞の号外>





 1972(昭和47)年3月に、西城秀樹さんは16歳でビクタ-から「恋する季節」でデビューしました。
 キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」(デビューの翌月に17歳になりました)でした。
 ちなみに、「西城秀樹」という芸名は、「女学生のとも」という雑誌の公募で決まったそうです。


 翌1973年6月に発売された「情熱の嵐」が、オリコン週間チャートで初めてベストテン(6位)に入り、25万枚を売りあげました。
 この曲では、「君が望むなら♪」と西城さんが歌うと、会場からファンが「ヒデキ!」と掛け声をかける「コール&レスポンス」が話題となりました。

 さらに同じ1973年に、「ちびれた愛♪」と「愛の十字架♪」が連続でオリコン1位となり、西城秀樹さんはスターの仲間入りをし、日本レコード大賞の歌唱賞も受賞しました。

 このころ西城秀樹さん(1955年生まれ)、野口五郎さん(1956年生まれ)、郷ひろみさん(1955年生まれ)の三人は、新御三家(しんごさんけ)と呼ばれるようになりました。

 1973年11月からは、「ヒデキ!感激」で有名な「ハウスバーモンドカレー」のCMが始まりました。
 ちなみに、自分の頬をたたいてVサインをする「ヒデキ!感激」のシーンは、赤ちゃんが偶然、頬をたたいたことから、考えられたそうです。


 1974(昭和49)年になると、西城秀樹さんの人気は、ますます高まります。

 まず、1974年1月からTBSの人気ドラマ「寺内貫太郎一家」に出演します。
 平均視聴率が31%を超えたこのドラマの中で、西城さんは主役の小林亜星さんとのけんかシーンを本気で演じ、左腕を骨折して入院しました。

 1974年2月発売の「薔薇の鎖♪」で秀樹さんは、スタンドマイクのパフォーマンスを日本の歌手で初めて披露しました。
 また、5月発売のレコード「激しい恋♪」は、58万枚を超える大ヒットとなり、7月には、初主演映画「愛と誠」も公開されました。

 さらに8月には、日本人のソロ歌手で初めて、「ドームコンサート」を大阪球場で行いました。(この年から10年連続で大阪球場で開催し、1978年からは6年連続で後楽園球場(東京ドームの前身)で開催しました。)

 大阪球場での初コンサートの前日、西城秀樹さん自身がラジオで「懐中電灯をもってきて」と呼びかけ、ファンがそれに応えて一斉に振ったのが、日本で初めて「コンサートでペンライトを使う」パフォーマンスだったと言われています。

 1974年8月には、西城さんの代表曲の1つとなる「傷だらけのローラ」♪が発売され、この曲で秀樹さんは「NHK紅白歌合戦」に初出場しました。
 以降、西城秀樹さんは、1984(昭和59)年まで11年連続で紅白に出場します。


 1975年には「全国縦断コンサートツアー」を開催し、日本人歌手で初めて「武道館ソロコンサート」を開催しました。(以後、11年連続開催)

 また、当時の人気のバロメーターだった「プロマイド(タレントのコレクション用写真→今の生写真のルーツ?)」の売り上げが1位になり、トップ・アイドルに上りつめました。
 プロマイドの売り上げ年間1位は、この後、全部で4回も記録しました。


 1976(昭和51)年からは、阿久悠さん作詞の歌も歌うようになりました。

 さらに、1979(昭和54)年には、アメリカの6人組グループ「ヴィレッジ・ピープル」が歌う「Y.M.C.A.」♪を、西城秀樹さん自身が交渉して、カバーすることに成功しました。

 ヴィレッジ・ピープルは、実は同性愛者(ゲイ)であり、日本の関係者は反対しましたが、西城秀樹さんはどうしてもこの曲を歌いたくて、「YOUNG MAN」♪ という「若者への応援歌」にリニューアルして発売しました。

 この曲は大ヒットし、西城秀樹さんの曲でも最大の80万枚を売り上げ、伝説の歌番組「ザ・ベストテン」(TBS)で、最高点の「9999点」を出しました。
 また、1979年の賞レースでも、「YOUNG MAN 」は、日本歌謡大賞を受賞しました。


 ではここで、西城秀樹さんの代表曲「YOUNG MAN 」の歌詞を紹介します。


♪「YOUNG MAN 」(作詞:BELOLO HENRI  作曲:MORALI JACQUES  歌:西城秀樹)♪


ヤングマン さあ立ち上がれよ
ヤングマン 今 翔び出そうぜ
ヤングマン もう悩む事は ないんだから
ヤングマン ほら見えるだろう
ヤングマン 君の行く先に
ヤングマン 楽しめる事が あるんだから

すばらしい
Y.M.C.A.
Y.M.C.A.
ゆうつなど 吹き飛ばして
君も元気出せよ
そうさ
Y.M.C.A. 
Y.M.C.A.
若いうちはやりたいこと
何でもできるのさ

ヤングマン 聞こえているかい
ヤングマン 俺の言うことが
ヤングマン プライドを捨てて すぐに行こうぜ
ヤングマン 夢があるならば
ヤングマン とまどうことなど
ヤングマン ないはずじゃないか オレと行こう♪



<写真 「YOUNG MAN」のレコードジャケット>




 
 1981年発売の「セクシーガール」♪で、西城秀樹さんのシングル総売り上げは1000万枚を超えました。
 その後も「ヤングマン」♪を中心に、西城秀樹さんの歌は、広く長く歌われました。


 ただし、アイドル歌手・西城秀樹さんのピークは、1970年代から1980年代の中頃までだと思います。
 しかし、人間・西城秀樹さんの真価が発揮されたのは、このあとでした。


 西城秀樹さんは、1994(平成6)年に10年ぶりに「ヤングマン」でNHK紅白歌合戦に復帰出場し、阪神大震災の起こった1995(平成7)年にも秀樹さんは紅白に出場し、「震災復興の応援歌」として「ヤングマン」を歌いました。

 また、1991(平成3)年には、西城秀樹さんの大ファンで、人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の原作者さくらももこさんが作詞した「走れ正直者」♪を、「ちびまる子ちゃん」のエンデングテーマとして、秀樹さんが歌いました。

 因みに、アニメ「ちびまる子ちゃん」の中では、まるちゃんのおねちゃんが西城秀樹の大ファンという設定ですが、おねちゃん役の声優・水谷優子さんは「神様って本当にいるんだね。」というセリフを最後に、2016年5月17日に、乳癌のため亡くなりました。

 それから2年後の2018年5月16日、1日違いで西城秀樹さんが亡くなられたのは、不思議な縁を感じますね。


 2001(平成13)年6月30日、西城秀樹さんは46歳で、大阪在住だった17歳年下の美紀さんと結婚しました、
 二人の間には、2002年生まれの長女、2003年生まれの長男、2004年生まれの次男の3人の子供が誕生します。


 家族ができて幸せの絶頂だった2003年6月、48歳の西城秀樹さんを病魔が襲います。
 韓国の済州島で脳梗塞(のうこうそく)を発症しました。

 ヘビースモーカー(1日4箱)で、ワインを1日2本も飲んでいた西城秀樹さんは、急激なダイエットやサウナへ水を飲まずに入るなど、体によくないことを繰り返した時に、脳梗塞になりました。

 ただし、倒れたのではなく、異変に自分で気づき、韓国でのディナーショーをやったあと帰国して、この時は一ヶ月ほど入院しました。
 秀樹さんの体には麻痺が残り、特に歌手として致命的な「構音障害」という声が出にくい状態になりました。

「もう、自分の人生は終わった。死んだも同然だ、引退しよう。」

 そう決心した西条秀樹さんに、奥さんの美紀さんは、
「長い間のツケがたまって病気になったのだから、ゆっくり時間をかけて一緒に治していきましょう。」と言ってくれました。

 この時、長女はまだ1歳に満たない赤ちゃんで、長男は奥さんのおなかの中にいました。
 そんな暖かい家族の中で、西条秀樹さんは、病気と闘う決意を固め、毎日のリハビリを始めました。
 病状は少しずつ改善し、やがてコンサートを開くようになりました。


 しかし、56歳になった2011年、西城秀樹さんは2度目の脳梗塞を発症し、下半身麻痺の症状も出ます。
 「傷だらけのローラ」ならぬ「傷だらけのヒデキ」は、それでもあきらめずリハビリを再開します。

 西城秀樹さんの言葉です。

「脳梗塞(のうこうそく)が再発してから、いまも右手と右足に痺れがあって、リハビリは欠かせない日課です。
 リハビリは、朝食後、9時ごろに家から近所の公園へ。休憩を入れながら約1時間半かけて歩きます。終わると、家に帰って柔軟体操と右手でグー・パーを400回。
 あと、発音がちょっとスムーズでないので約15分、音読をします。
 音読もすごいリハビリになるので。松下幸之助さんや昔の偉人たちの名言を読んでいます。」
 
 西城秀樹さんは、そんな不自由な自分を隠さず、ありのままの自分を見せて、それでも一生歌手、一生アイドルであり続けると決意しました。


 余談ですが、実は私も、去年、「軽い脳梗塞」だと診断され、リハビリを数カ月しました。
 その時、リハビリを手伝ってくれる作業療養士からさん言われたのは、
「あの西城秀樹さんも、10年以上、毎日、リハビリにがんばっておられるのですよ。」
という話でした。
 今までできていたことができなくなっている状態で、単調で根気と努力のいるリハビリを、あの大スター「西城秀樹」さんもやっているというのは、私にもすごく励みになりました。

 西条秀樹さんは、脳梗塞などのリハビリ患者のお手本、希望の星、文字通り「トップスター」だったのです。

 それほど、がんばっていた西城秀樹さんが、脳梗塞から発祥しやすい「心不全」で亡くなったニュースは、私も含め多くの患者さんにとっては、大ショックだと思います。


 それでも、西城秀樹さんが二度の脳梗塞に真摯に向き合い、リハビリを続けたことや、「3度めの人生をありのままに生きる」と決意し、冒頭に紹介した次の言葉を語り、そのとおりに生きたことをファンも同じ病気の患者も忘れないと思います。

「大事なのは、今、このとき。
1日を一生のつもりで、一生懸命に生きたい。
俺が、死のゲートをくぐる時、きちんと前を向いた進行形でいたい。」



<写真 西城秀樹さんのシングル「若き獅子たち」のレコードジャケット(1976年)>





 おしまいは、「西城秀樹さん」のいい話を2つ紹介します。

 1つめは、1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を発売した時の話です。

 当初、あまり売れないと思っていたこの曲が大ヒットし、生産が追い付かなかった時、西城秀樹さんは、レコードを急遽、増産することになった神奈川県のビクターの工場を訪れました。
 そして、「みなさんに残業させることになりますが、よろしくお願いします。」と頭を下げ、みかん箱にあがり、「YOUNG MAN 」を熱唱したそうです。
 秀樹さんの人柄が、よくわかる話ですね。


 もう一つは、西城秀樹さんがテレビや舞台だけではなく、アイドル仲間にも愛されていたという話です。

 西城さんや郷ひろみさん、野口五郎さんが「新御三家」と呼ばれていたのに対し、西城さんより学年で3つ下の女性アイドル3人(森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さん)は、「花の中三トリオ」と呼ばれて人気を博していました。
   
 中でも、山口百恵(1959年1月17日生)さんは、絶頂で引退し芸能界に復帰しなかった「伝説的アイドル」として、今も絶大な人気があります。

 この山口百恵さんから、西城秀樹さんは、若いころラブレターをもらったそうです。
「その頃は、あまり女の子に興味がなかったから、つきあわなかった」そうです。

 硬派の秀樹さんと、誠実に生き、今も芸能界への復帰をしない山口百恵さん、二人のビッグカップルが
実現していたら、それはすごいことだったでしょうね。

 アイドル仲間にも愛された、若き西城秀樹さんの、ステキな話ですね。



 最後は、西城秀樹さんの生き方そのもののようなヒデキの名曲「若き獅子たち♪」を紹介します。

 この曲は、1976(昭和51)年9月5日、西城秀樹さんが21歳の時に発売された曲で、作詞はあの阿久悠(あくゆう)さんです。



♪「若き獅子たち」(作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 歌:西城秀樹)♪


太陽に向かい 歩いてる限り
影を踏むことはない そう信じて生きている
あなたにもそれを わからせたいけど
今は何にも告げず ただほほえみ のこすだけ

甘いくちづけだけに おぼれそうな今
ぼくはふりきって さらばあなた

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば

闇よかくすな 獅子のたて髪を
若さを誇らしさを思う時に


太陽が昇り 落ちて行くまでの
ほんの短い間 何をしたらいいのだろう
愛だけに生きて ほしいのとすがる
黒い瞳のあなた もう何も言わないで

熱い抱擁だけに 時を忘れそう
ぼくは目を上げて さらばあなた

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば

闇よ隠すな 獅子のたて髪を
若さを誇らしく 思う時に

風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない 時であれば♪



2018年4月25日、人生最後のリハビリを
一生懸命に行った西城秀樹さんは、
その夜、自宅で家族と談笑中に倒れました。

その後、3週間、西城秀樹さんの意識は戻らず
2018年5月16日午後11時53分
急性心不全のため、
神奈川県横浜市内の病院で永眠されました。

しかし、
西城秀樹さんの
アイドルとしてのかっこいい生きざまも
歌手として最後までステージに上がり続けた情熱も
脳梗塞と戦いながら、1日も休まずにリハビリを続けた誠実さも、
ファンやみんなの心から、消えることはないと思います。

太陽に向かい、影を踏まずに
最後までまっすぐに歩き続けた西城秀樹さん。

本当の昭和のトップアイドルであり、
平成の希望の星(ビッグスター)でした。

心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
ヒデキ!




2018年5月4日金曜日

アイドルの坂道(16)農業アイドル・TOKIOとメンバーたち ~危機を救うのは福島との絆?~

 農業やサバイバルを実践し、年齢や性別を問わず、老若男女から支持を受けていたアイドルグループ「TOKIO」のメンバーの1人山口達也さんが、未成年への暴行事件を起こし、「TOKIO」自体が危機に直面しています。

 そこで、今回は「アイドルの坂道」で初めて男性グループとして、「TOKIO」を取り上げて、グループとメンバーのことを紹介します。


 1989(平成元)年4月から1991年3月まで、テレビ朝日などで放送されたテレビ番組「アイドル共和国」は、レギュラーのSMAP、セミレギュラーの光GENJIをはじめ、多くのジャニーズ事務所のタレントが出演していました。

 埼玉県所沢市の「西武園ゆうえんち」を舞台に放送されたこの「アイドル共和国」の中で、TOKIOの前身である「TOKIO BANDO」(城島茂さん、山口達也さんなど)と「SMAP学園」(国分太一さん、松岡昌宏さん、長瀬智也さんなど)というグループが誕生しました。

 1990年4月、城島茂さんと国分太一さん、松岡昌宏さんの3人が合流して結成したのが、「TOKIO」です。
 少し遅れて、小島啓さんと山口達也さんが参加し5人となり、長瀬智也さんは、当初はサポートメンバーでした。

 TOKIOのメンバーは、デビュー前に、SMAPや光GENJIのバックダンサーを務めていました。


<写真 「アイドル共和国」があった西武園ゆうえんち(埼玉県所沢市)>





 1994(平成6)年9月のTOKIOのメジャーデビューの直前、メンバーの1人、小島啓さんが突然、ジャニーズ事務所を辞め、芸能界を引退しました。
 そこで、急遽、長瀬智也さんが正式メンバーになり、2018年まで続く5人で、1994年9月21日に、TOKIOは「LOVE YOU ONLY」でメジャーデビューしました。

 この年、TOKIOは、全国9都市で24公演を行い、CDデビュー2ヵ月後の11月2日には「武道館公演」を行いました。
 さらに、1994年12月31日には、デビュー後3カ月で、NHK紅白歌合戦に初出場しました。
 この年から2017(平成29)年まで、TOKIOは24回連続で紅白歌合戦に出場しています。

 これまで、シングルCDは「宇船」や「クモ」など53枚、オリジナルアルバムは12枚、発売しています。



 1995(平成7)年11月に、TOKIOの看板番組として始まった日本テレビ系の「ザ!鉄腕ダッシュ!」は、最初は深夜の30分番組でした。

 しかし、TOKIOのメンバーが、アイドルなのに、農業や漁業、酪農や製造業、ハチの巣取りまで本気で行う企画が好評で、1998年春からは日曜夜7時からのゴールデン枠の日本テレビ系全国28局ネットの60分番組となり、それから20年経った2018年5月現在でも、「鉄腕DASH」は。「サザエさん」、「笑点」と並ぶ、日曜夜の3大番組と呼ばれ、15%~20%の高視聴率をキープしています。


 番組内では、農業でコメ作りを10年以上続けたり、城島キャプテンがクレーン車やショベルカーの免許をとって行う建設工事など、本気と一生懸命さが多くの視聴者の共感を呼び、TOKIOは「農業アイドル」と呼ばれています。

 特に、福島県浪江町で東日本大震災まで本格的な農業を行っていた「DASH村」や、日本近海(公表されていませんが瀬戸内海西部説が有力)の無人島でサバイバル活動で「小さな日本作り」をめざす「DASH島」、各地の捨てる食材で料理を作る「0円食堂」など、日本人が忘れていた自然とのふれあいや、自立、ものを大切にする企画は、世代や性別を問わず好評で、「子供たちに見せたい番組」の上位にランクインし、「男が好きなジャニーズアイドル」としても、TOKIOは不動の人気を誇っています。


 ほかにも、「24時間テレビ 愛は地球を救う」(日本テレビ系)のメイン・パーソナリティを3回(1998年、2003年、2010年)務め、1997年には山口達也さんが、2014(平成26)年にはキャプテンの城島茂さんが、それぞれチャリティ・マラソンのランナーにもなっています。

 また、「2020年東京オリンピック・パラリンピック」のフラッグツアーのスペシャル・アンバサダーに就任するなど、TOKIOは、様々な活動を個人やメンバー全体でしています。


<DASH村(福島県浪江町)>






 ここからは、 TOKIOの5人のメンバーを紹介します。


 まずリーダーの城島茂(じょうじま・しげる)さんは、1970年11月17日千葉県市原市生まれで、奈良県大和郡山市出身の47歳です。
 TOKIOの最年長でリーダーです。

 小学校3年で両親が離婚し、母子家庭で育ち、中学校までは不登校を繰り返す子供でした。

 TOKIOとしてデビューしてからは、「鉄腕DASH」で料理や重機操縦(免許)など、本格的にがんばる真摯で温厚な姿勢が、メンバーや外部からも厚い信頼を得ています。

 過去には多くの番組やCMへの出演、作詞もした経験もあり、今は「民謡魂 ふるさとの歌」(NHK総合)や「週間ニュースリーダー」(テレビ朝日)のレギュラーなどをしています。



 2人めの国分太一(こくぶん・たいち)さんは、1974年9月2日に東京都東久留米市出身の43歳です。
 
 映画「しゃべれども しゃべれども」や「だいじょうぶ3組」などの主演をしているほか、CM、バラエティ番組、作曲、司会などもやっています。

 現在も、平日の毎朝放送しているワイドショー「ビビット」(TBS)の司会など、多くのテレビ・ラジオ番組に出演しています。

 2018年5月現在、(山口達也さんが離婚したため)TOKIOのメンバーで唯一の妻帯者で、1歳の女の子の父親でもあります。



 3人目のメンバーは、松岡昌宏(まつおか・まさひろ)さんで、1977年1月11日北海道札幌市生まれの41歳です。

 10歳で横浜に引っ越し、毎日、丘の上から東京タワーを見て、「このタワーが見える場所に住む」という誓いを立てて、ジャニーズ事務所のオーディションを受け芸能界入りしました。
 小さい時から料理が得意で、「鉄腕DASH」でもその腕前を披露しています。また、紫色好きでも有名です。

 映画「ゴジラ FANAL WARS」の主演のほか、「必殺仕事人シリーズ」(テレビ朝日)をはじめ、多くのテレビドラマやラジオ、CM、舞台などに出演しています。



 4人めのメンバーは、長瀬智也(ながせ・ともや)さんです。
 1978年11月7日神奈川県生まれの39歳で、TOKIOでは、最年少メンバーです。

 TOKIOの多くの楽曲のボーカルをはじめ、テレビドラマの「白線流し」(フジテレビ)や「タイガー&ドラゴン」(TBS)などの主演をはじめ、多くの映画・ドラマ・舞台・CMなどで活躍しています。
 また、作詞・作曲をしたり、写真集を出したりもしています。



 最後の5人目のメンバーが、今、悪い意味で「時の人」になっている山口達也(やまぐち・たつや)さんです。
 1972年1月10日埼玉県草加市生まれの46歳です。

 山口さんも、他の4人のメンバーと同じく、朝の情報番組「ZIP」(日本テレビ系)のコメンテーターをはじめ、映画、テレビ、CM、ラジオなどで活躍していました。
 ところが、2018年2月に自身が司会を務める番組「Rの法則」(NHK・Eテレ)の未成年(16歳)の女子高生を、部屋に呼びキスなどのわいせつな行為をしたということで問題になりました。

 被害者と和解が成立し、処分保留で不起訴になりましたが、アルコールによる肝障害(中毒症状ともいわれています?)で入院し退院した直後に飲酒して起こした事件で、公になるまでメンバーにも話していなかったこともあり、世間的はもちろん、メンバーの信用も失い、「無期謹慎」で芸能人生命が、崖っぷちになっています。
 

<TOKIOが参加している福島県の食の安全PRポスター>






 2011年3月11日、TOKIOのメンバーが長い間、農業の拠点にしてきた「DASH村」がある福島県双葉郡浪江町が東日本大震災で被災し、「福島原子力発電所事故」の影響で、DASH村は「計画的避難区域」に指定され立ち入り禁止になりました。

 この年から、長年、お世話になった福島県への恩返しとして、「福島県産の農作物」の安全PRのCMに
TOKIOはノーギャラーで出演してきました。

 そのTOKIOが、グループ存続の危機に陥った2018年5月、ネットを中心に福島県民からは「今まで私たちを支えてくれたTOKIOを、今度は福島が助ける番」という意見が広がっています。
 TOKIOのピンチを救うのは、福島県との絆かもしれませんね。


 また、「農業」や「自立」の大切さを教えてくれてきたTOKIOの「鉄腕DASH」は、山口達也さんの不祥事が起きても、「存続してほしい」とのファンの声が多く、番組スタッフからもTOKIOメンバーに「僕らもTOKIOです。これからも一緒にやりましょう。」という心温まる言葉もあったそうです。
 番組は、山口さんを除く4人で継続されるそうです。
 私も、よく見る好きな番組なので、よかったなと思っています。



 山口達也さんの事件への反省・償いはしっかりとしてもらって、4人なのか5人なのかはわかりませんが「貴重な農業アイドル・TOKIO」の活動を、これからも続いてほしいと願っています。


 最後は、今のTOKIOメンバーの心を歌ったかのようなTOKIOの曲、「frajile」(われもの注意の意味)を紹介します。


♪「frajile」(2016年発売 作詞・作曲 長瀬智也 歌:TOKIO)♪


花びらが風に吹かれ
命のように散っていく
ただ追いかけて
悲しみもなく 
途方に暮れるんだろう

涙 拭かないと
ほら 桜がキレイだよ

壊れそうなほど 胸が苦しくて
明日が見えなくても
ただ唄うしかなくて


いつの日も 風に打たれ
子供のように泣いていた
思い出しても 跡形もなく
空に溶けていくんだろう

僕の心のように
桜が揺れている

壊れそうなほど 君に触れたくて
もっとたくさんの歌詞は
明日が見えなくても また歩きはじめるから


壊れそうなほど 胸が苦しくて
明日が見えなくても
ただ唄うしかなくて

ユラリユラリユラリユラリラ
ユラリ 桜咲いてる

確かに生きている
あの桜みたいに 力強く
言葉じゃないものが
心に咲き誇れ
あの桜 みたいに♪




相手がピンチの時に
助けるのが本当の友人
だとしたら

「TOKIOと福島」は
本物の絆でつながっている友人だと思います。

TOKIOの代名詞
「DASH」は
突進する・打ち砕くという意味があります。

TOKIOと福島は
固い絆で、
正々堂々と困難に突進し
障害を打ち砕いてほしいですね。